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阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「月夜のはかりごと」みゆ

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作文・エッセイ
結果発表
TO-BE小説工房
第57回 阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「月夜のはかりごと」みゆ

霧吹きをかけると、壺は、ゆらんと妖しく揺れた。ぽってりと膨らんだ底に、わずかに入った液体が、うっすらと透けて見える。今夜、私は人を、一人、世界から消すのだ。

弟がその植物をくれたのは、引越し前夜のことだ。私はその手元を見て、ぎょっとした。青々とした葉に、奇妙な壺のような袋がたくさんぶら下がっている。お礼を言って受け取ったのは、ふだん憎まれ口ばかりの弟も、内心、私の上京が寂しいのかもしれないと思ったからだ。

それにしても、趣味の悪い餞別だ。大学にほど近いワンルームのアパートの片すみで、その植物は、ますます存在感を増していくのだ。枯らしてはいけないと思い、ネットで調べてみると、「ウツボカズラ」という名らしい。甘い蜜で壺型の捕虫袋に虫を誘い込む。滑りやすい内壁のために、入った虫は二度と這い上がれず、袋の消化液で消化される。いわゆる食虫植物だ。育て方を検索していると「都市伝説」というページに行き当たった。「満月の深夜、成ったばかりのウツボカズラの中の消化液を飲み干せば、その人が世界で一番憎んでいる人を消すことができます」

ばかばかしい。だれがこんなことを考えたのだろう。第一、このグロテスクな捕虫袋の中の液を飲むなんて、考えただけでぞっとする。けれど飲めることは事実らしく、実際、自生国の東南アジアでは緊急事態に水分補給として飲まれているという。

世界で一番憎んでいる人…ふっと真っ赤なマフラーが頭をよぎった。寒々とした冬の木立の中で鮮やかにはためくマフラーを巻きつけて颯爽と歩く真理奈は、さながら影絵の中に咲き誇る一輪の大輪の薔薇の花だ。白く細い手を握っているのは、誰もが憧れる先輩。私は月並みな顔立ちだ。特別下手なものがないかわりに、ずば抜けた特技もない。その隣に、小さい頃からずっと、輝く美貌の利発な真理奈が、ぴったりとくっついていたのだ。真理奈は、私を親友と呼ぶ。けれど私はいつの頃からか、その関係が苦しくなっていた。自分の美しさや能力を引き立てるために私の傍にいるのではないかと疑ったこともあった。真理奈と離れたくて東京の大学を選んだというのに、よりによって同じ大学を受験していたなんて。しかも、毎日、猛然と机にかじりついていた私を尻目にデートに夢中だった真理奈も合格するなんて。いつも、そうだった。真理奈は、私が欲しいと思うものは皆、涼しい顔で手に入れた。皆が振り向くような美貌も、羨望を独り占めする恋も、裕福な家庭も、一流の大学も、なにもかも。

私が本気で消化液を飲もうと思い始めたのは、それから半年経った頃だ。頭の片隅では、そんな自分を愚かしいと嘲笑った。それでも、傷ついて帰って来た夜、いつも視線の先には気味が悪いほどに妖しく美しい壺をつけたウツボカズラがあった。

ぽっかりと黄色い満月が空に浮かんだ深夜だ。私はウツボカズラの捕虫袋を手に取った。中を覗くと、そこに消化液がとろりと入っている。飲むとどうなるというのだろう。何も起きないかもしれない。それとも、まさか本当に真理奈が…私は魔法の小瓶に口をつけ、目をつむって傾けた。なまぬるく、わずかに青臭い水が口に流れこむ。吐き出したくなるのを我慢して、ゴクリと飲む。その瞬間だ。ふっと体が軽くなった。再び目を開けてみると、しんと静まりかえった緑の部屋にいた。よく見ると壁には小さく赤いタイルが点々と張り付いている。床も壁もロウを塗ったように、ぬめぬめとしていて、とても立ち上がれたものではない。ふと見上げると、ぞっとするほどはるか遠く頭上に、満月のような丸い穴がぽっかりと口を開けている。背筋が凍りつくのがわかった。これは、ウツボカズラの壺の中なのだろうか。まさか。でも、なぜ。消えるのは世界で一番憎んでいる人のはずではなかったか。いやな汗が、すうと一筋、背中を這っていった。私が、一番憎んでいる人…それは、真理奈なんかじゃない。そうだ、ずっと心のどこかでわかっていたではないか。真理奈の幸せを妬み、嫉妬し、比較しては自信を失くしていく、そんな卑小な自分自身を、誰よりも憎んでいたことを。私は一匹の虫のように立ち上がろうともがいた。けれど、もがけばもがくほど、体がねばねばとした水に溶けていく。ああ、そうだ、私は真理奈を、こんな目に合わせようとしたんだ。小さくなっていく体を抱きしめながら、私はうめいた。

はっと気づくと、床に寝転がっていた。夜は明け、金色の日差しが窓からこぼれている。緑色のカーテンが、風に揺れている。その下に、蠱惑的なウツボカズラが、ぽっかりと口を開けていた。