阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「真夜中のチャイム」石黒みなみ
家のそばの市立緑高校のチャイムが変わった。昔ながらの、キンコンカンコンと鳴り響くあの鐘の音ではなく、メロディなのだ。いったいあれはなんだ、と思っていたら日曜日に遊びに来た高校生の孫が「じいちゃん、知らないの。普通メロチャだよ」という。
メロディチャイムの略らしい。たいてい校歌のサビを使うそうだ。メロディが鳴り始めると移動し、終わるまでに着席することになっているという。年のせいか、あのキンコンカンコンの方がなじみがいいような気がする。
孫が帰った次の日の夜中のことだ。トイレに起きたら、なんとあのメロディチャイムが鳴り響いているではないか。そんな馬鹿なと思って布団をかぶったが、眠れない。一時間ほどしたらまた鳴り出した。どうなっているのだ。一人暮らしだと話し相手もいなくて薄気味悪い。思い切って外に出てみると、真夜中だというのに校舎に明かりがついている。正門も開いているので中に入っていった。
あちこちで声がしている。一番騒がしいほうに行ってみると食堂だった。制服姿の高校生が楽しそうにしゃべりながら、丼やラーメンを食べている。はて、夜間部があっただろうか。あったとしても、十時くらいには終わるのではないか。今は真夜中だ。
すぐそばのテーブルでは女の子がジュースを片手にイラストを描いている。そこへ、もう一人女の子がプリンを手にやってきた。「これ描いてよ。名物、緑高プリン」
「あ、グッドアイデア」
最近の学食ではプリンまで売っているのか。
「ご近所の方ですか」
振り向くと白いシャツを着た若い男が立っている。教師らしい。
「こんな夜中に開いているのですか」
「ええ。昼間の学校に来づらいような子たちのために、夜あけているんです。ご理解ください」
「なるほど」
絵を描いている女の子が顔を上げて、私に話しかけた。
「もうすぐ文化祭なんです」
若い教師が付け加えた。
「招待券のデザインをしているんです。そのうちご近所の皆さんにもお配りします」
そこへ空の丼を手にした、茶色い髪の男子がやってきた。
「カツとじ丼のほうが絶対いいって」
「プリンだってば」
「おい、そろそろ昼休みも終わるぞ、食べたら早めに出ろよ」
はあい、ういーっす、とそれぞれ返事をして、生徒たちは立ち上がった。同時に例のメロディが鳴り始めた。教師は食堂全体に向かって叫んだ。
「メロチャが鳴ってるぞー、急げよー」
教師まで略語か、と苦笑いする私に、
「これにしてから、みんな遅れなくなったんですよ」
と愛想よく言う。その視線の先を見ると、廊下を女の子たちが歌いながら走っている。
「みどーり、みどーり、ああ、みどーり高校」
「校歌も少なくともサビの部分は覚えてくれて、一石二鳥です」
なるほど、とうなずいているうちに、あっという間に食堂は空っぽになった。
「文化祭、ぜひいらしてください。食券もおつけしますから。おーい、そこの男子、急げよ!」
若い教師は、まだ自販機の前でジュースを飲んでいる生徒のほうへ走って行った。
その後姿を見送ってから私は学校を出た。家に帰っても、不思議な気持ちでなかなか寝付けなかった。
翌日は寝不足で、早々と床につき、深夜のチャイムに気もつかず、珍しく朝まで熟睡した。朝刊を取りに出ると、折り込みとは別に一枚チラシがポストに入っていた。
緑高校の校長名で書かれたその文章は、時候の挨拶に続いて次のように書かれていた。
「先日は深夜にチャイムが鳴るというご迷惑をおかけして大変申し訳ございませんでした。チャイム点検後の設定ミスであり、二度とこのようなことがないよう……」
ミスだって? 私は首をかしげた。若い男の教師は、まるで毎日真夜中にチャイムが鳴るのが当たり前のように言わなかったか。
暗くなるのを待って、私は緑高校に出かけてみた。しかし、校舎は真っ暗で、正門もきっちりと施錠されていた。頑張って夜中まで起きていたが、チャイムは鳴らなかった。夢でも見たのだろうと思った。年のせいだ。
一週間ほどたったころ、緑高校の文化祭の案内チラシと、食券付きの招待券がポストに入っていた。そこには、あの女の子が描いていたイラストが「名物、緑高プリン」の文字と共に印刷されていた。しかも、小さな字で「カツとじ丼もおすすめよ」と書き込まれていたのである。