若桜木虔先生の指導でデビューした方々の声(加藤廣)
- タグ
- 作文・エッセイ
『若桜木先生との出会い』
平成十四年夏の暑い日だったと思う。
東銀座の歌舞伎座の昼興行を観た帰り際に、昭和通りの四つ角にある改造社書店で、偶然、若桜木先生の『プロ作家養成塾』と出会った。私に買われるのを最後に待っていたかのように、たった一冊だけ残っていた。
(ベストセラーズ刊)
ぱらぱらとめくってみると、小田急沿線で教室を開いているという。
「町田か、遠いな。どうするかな」
自宅からでは、電車を二つ乗り換えねばならない。一時間半ぐらいかかりそうだ。
一瞬ためらったが、すぐ思い直して、その場で行ってみることに決めた。
この頃、私は悩んでいた。後に『信長の棺』(平成十七年五月、日本経済新聞社刊)となる元原稿は、すでに書き上げていた。自分でつけたタイトルは『本能寺異聞』。五千枚の大作である。だが、内容の異端性はともかくとして、登場人物が多いために、書く視点がばらばら。人物の時系列にも乱れがあって、至って読みにくい作品だった。
(どうしたら読みやすい、いい原稿になるか)
ワラにもすがりたい心境が、ふらふらと私の身を町田へと運ばせた。
最初の教室での若桜木先生との応答は次のようなものだったと記憶する。
「加藤さんは、どんなジャンルの小説を書きたいのですか」
「時代小説です。第一作は信長に決めています。本能寺の変で消えた信長の遺骸を追うミステリー時代小説に仕立てたいのです」
「信長の遺骸の在りかについて、なにか腹案を持っていますか」
「持ってます。遺体は、本能寺の火事と爆発で粉々になって消えたのだろう、などと言って既成作家は逃げていますが、そんなことはないと思います。そうでなければ、明智左馬助(光秀の娘婿)が現地に留まって捜索を続けたり、京都で秀吉が単独で葬儀を挙行できるわけはない。地元の清洲では反秀吉派が結集して柴田勝家を中心に尾張で挙行している状況ですし。私には二十年来、考えに考えてきたものがあります。推理の裏付けとなる調査もしてきました」
「後は書くだけですね」
「それも終わっています。ただ、先生の本を読んで書き方を反省しました。もう一度、改めて書き直す気になりましたのでよろしくお願いします」
これで、いきなり塾の「ビッグタイトル狙い」組に入ることを許された。
教室は月二回。出席率こそあまり良くなかったが、メールでのやり取りでの原稿の添削は、数え切れないほど受けた。本との出会いが改造社書店であったように、私の元原稿は大改造を経て、見違えるほどに変わっていった。
ゴルフでも、自己流でなく、レッスンプロに習えという。まして小説は、当たれば何十万人もの人々の厳しい鑑賞の目にさらされるものとなる。レッスンコーチの必要性は、ゴルフコースという箱庭の世界の比ではない。事実、『信長の棺』は、発売十カ月で十八版二十四万部のベストセラーになったが、この成功には、間違いなく若桜木さんのコーチ力がある。
どんなコーチを受けたのか? それを知るには若桜木塾に入るのが一番だが、この本の読者には、私の体験した以下の「さわり」の部分だけは明かしてもいいと思う。
第一にタイトル選び。
私の最初の腹案『本能寺異聞』は即座に直された。
「加藤さん。本格的な小説と自負されるなら、ご自分から、『異聞』などと言ってはいけませんよ。もっと堂々たるタイトルをつけなさい」
なるほど、なるほど。ということで、タイトルは『吉祥草は睡らない』と変えた。
しかし、この新タイトルも、後に日本経済新聞社で、縄田一男先生(文芸評論家)の一言「『信長の棺』しかないでしょうな」で二転。こちらが本題に決まった。そのため『吉祥草は睡らない』は、小説の第六章の名前に落とした。ちょっぴり残念な気もしたが、人目を引くには縄田先生の言うように頭は『信長……』だったようだ。脱帽!
第二に書き出し。これには「無名の新人」と「既成作家」に違いがある。それをベートーベンの交響曲『運命』に譬えて比較解説された時は、さすがプロ作家だと思わず「うむ」とうならされた。
先生の批評によれば、私が最初に持ち込んだ原稿は、
「文章はうまいのですが、これは既成作家の出だしです。無名の新人としては残念だが、これでは通りません」
私は素直にこれを受け入れた。
第三に起承転結の付け方。
私は、あらかじめ物を書くとき「章建て」して書かない。東洋経済新報などで、これまで十数冊のビジネス書を書いてきたが、いずれも、思いついたまま頭から書いて行く。出版社には、「本当ですか。信じられない」と、けげんな目で見られたものだが、フィクションならなおさらだ。書く前に決めているのは、最初の出だしと、フィナーレの言葉だけである。『信長の棺』も、その例外ではなかった。あとは、ひたすら主人公と一心同体、時には本人になりきって、一種の《トランス状態》で書き続ける。ついつい起承転結を忘れてしまう。このあたりの若桜木先生のご指導もよかった。
第四に書く技術。
「この部分は、もっと前の章に出して書くように」「ここはもっと描写を細かく」「ここで心理描写を二、三行加筆」
書く本人は、そこまでの気配りのないまま先へ先へ、と進んでしまうことが多い。横で見ていてもらえる「他人の目」は貴重だった。
第五にミスの発見。
『信長の棺』を読んだ方は、おわかりだろうが、主人公の太田牛一が、女忍びを連れて丹波に行く場面がある。途中、女が「つわり」に苦しむ描写を入れていて若桜木先生に笑われた。
「くノ一は、つわりを防ぐ方法を知っています。これはありえません」
早速、書き直した。
時代小説ではないが、書きかけの現代小説(未発表)では、警視庁の捜査一課長を四十二歳のキャリアと書いて直された記憶もある。
「捜査一課長はノンキャリの叩き上げです。四十二歳ではなれません」
「でも、人気作家の××さんの作品には、そういう捜査一課長が出てきますが」
「そちらが間違いです」
これには参った。うっかり好きな人気作家のミステリーの人物設定を借用したのがいけなかった。以後、この人の作品は読まないことに決めた。
第二作の『秀吉の枷』でも、秀吉の九州遠征軍十二万を「史上最大」と書いて指摘を受けた。
「承久の乱の動員数の方が大きいはずですよ」
調べてみて、十五万と判明した。
ことほどさように、指導を受けた効果は絶大だった。
若桜木先生の指導は、第二作の『秀吉の枷』(平成十八年四月二十日、日本経済新聞より刊行、上下巻)でも、なお継続して受けている。今後も、私が作家として書き続ける間は、ずっと課外指導を受けさせてくれるようにお願いしている。
世界的ゴルファーのT・ウッドでも、一時、レッスンプロを変えた途端に駄目になったことがある。小説も同じ。いや、もっと必要だと信じるからである。
既成作家でも、前述の間違った捜査一課長の例に見られるように、編集者では気づかないような、とんでもないミスを犯していることがしばしばである。大作家になるほど、編集者は口出しができなくなる。
私は、作家になる前の経営コンサルタント時代、各地の講演で、こんな話をしたりビジネス書にも書いたりした。
「この頃の時代小説には、大作家でも、信長や秀吉あるいは向井水軍が、遠眼鏡を使っていたなんていうデタラメが随所に出てくる。読む気がしませんね」
望遠鏡がヨーロッパで発明されたのは、「関ヶ原の戦」の後の1608年。信長も秀吉も知るわけはない新技術である。不勉強も甚だしい。
ところが、なんの因果か、そんな批判をしていた時代小説家に自分がなってしまった。こういうのを「ミイラ取りがミイラになる」というのだろう。だから余計に怖い。
「大きなウソは言ってもいいが、(その道の専門家ならすぐわかるような)小さなウソはついてはいけません」
これも、若桜木教室で得た教訓の一つである。