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ねこまんまの希望

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ねこまんまの希望

福子

ご主人さまと山ではぐれた。お腹の子どもたちのためにも何とか家に帰ろうと、さまよい続けて一週間。街を目指してひたすら歩き、やっとの思いでたどり着いたのは、見覚えのない街だった。飲まず食わずで歩き続けた私の体力は限界だった。子どもたちのお腹をける力は、日に日に落ちている。

家に着くまで無事でいてくれるかしら……。

とにかく何か食べたい。水を飲みたい。

「君、土佐犬だね。どこの子?」

声に驚いて顔を上げると、小さな女の子を連れた若い女性が目の前に立っていた。

「ひとりぼっちなの? ご主人さまは?」

私に言葉をかけながら異常はないかと体をサッと見回した女性は、私のお腹に気がつくとしゃがみ込み、愛しさと悲しみの入り混じった瞳でお腹を見つめた。すると今度は、ちょっと待っててと私に言うと、女の子の手を引き、建物の中に急ぎ足で入っていった。

これまでご主人さまとともに戦ってきた。百戦錬磨の強者ともてはやされたけれど、私の見た目を恐れる人間さんは多い。

でも、あの人は私を恐れていなかった。まっすぐ私を見ていた。男ばかりの世界で戦っていた私ではなく、お腹に子を宿した母親の私を。だから大丈夫、あの人はきっとここに戻ってくる。

「ごめんね、待ったでしょう」

女性が女の子とともに鍋を抱えて戻ってきた。

お味噌汁とご飯の匂いが鼻をくすぐった。

「近所の人は、あなたを保健所に引き渡すと言ってるわ。私が育てるのならいいと言ってくれたし、私もそうしたいんだけど、あなたとお腹の子を育てる余裕はうちには……」

私の目の前に鍋が置かれた。

「こういうことをしちゃいけないって分かってる。でも、人間にもてあそばれたあなたを思うと。どうかせめてお腹いっぱいになって。ごめんね、私にはこれぐらいしか……」

ああ、そうか。私はあの世にいくのか。

保健所と呼ばれるのがどんな場所なのか知らないけれど、それだけは理解できた。

ご主人さまに会いたくてここまで来たけど、家に帰ることができないまま、命が終わる。せめてお腹の子だけでもと思うけれど、きっと叶わない。

私は女性を見上げた。この人は私を逃がしてくれるかもしれない。でも、たとえ今お腹いっぱいになったとしても、またすぐ空腹になるのは目に見えている。ここで逃げても結果は同じだ。

私は立ち上がって、女性が持ってきてくれた鍋いっぱいの『ねこまんま』をひと口食べた。優しさがおいしかった。夢中で食べた。女性は、私の背中をなでてくれている。その温かい手は震えていた。

ほどなく、一台の車がやってきた。一人の男性が降りてきて、ご飯を食べ終えた私の首にひもをかけ、車に乗せようと引っ張った。これが最後なのだ。私は、全力で抵抗した。

最期なら、せめて、あの人がいい。

最期なら、せめて、選ばせてほしい。

ふと、男性は引っ張るのをやめて私を見た。そして今度は、ご飯をくれた女性を見た。

「もしかしたらこの子は、あなたと歩きたいのかもしれません。こんなお願いをするのは残酷なことだと分かっています。それでもどうか車までお願いできませんか」

男性がひもを差し出した。女性は困った顔で受け取ると、重い一歩を踏み出した。私は女性の隣について、車までの数歩の道のりを刻むように歩いた。永遠と思える時間だった。車に着くと、男性はありがとうございましたと言ってひもを受け取り、私をケージに入れようと手をのばした。今度は抵抗しなかった。

もう思い残すことはない。

ドアが閉まる瞬間、立ちつくす女性の姿が見えた。あの人はきっと泣いている。

どうかその優しさをなくさないで。ほんの少しだけど、あなたと歩くことができてうれしかった。いつかまた会えたら、お鍋いっぱいの『ねこまんま』をご馳走してくださいね。

あの人を思い、何度も何度も繰り返した。

「さっき、お前の体に古傷がたくさんあるのを見た。ずっと戦ってきたんだろう?」

最期の場所へと私を運ぶ車の中で、男性の重い声が響いた。

「俺はこれでも獣医なんだ。お前たちの命を救うのが仕事のはずだし、お前のことも救いたいと思ってる。それなのに……。俺たち人間は身勝手だ。もし主が見つからなかったら俺はお前を……。恨んでいるか? 憎んでいるか? なあ、教えてくれよ……戦友」

あれから五年の月日が流れた。今でもあの日のことを鮮明に思い出す。お腹の子どもたちは無事に生まれ、乳離れのあとで優しそうな人間さんの家族として巣立っていった。

「今日はお前と出会った記念日だからな、ごちそうだぞ。鍋いっぱいの『ねこまんま』だ。腹いっぱい食べるんだぞ……戦友」

私を戦友と呼ぶその人は、あの日からずっと私の隣にいる。かけがえのない家族として。