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人魚の子守歌

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人魚の子守歌

宮森ちさ

あるところに小さな海の世界がありました。

ここの海には国もなく、王様もいませんでした。

そこに住む生きものたちは皆生きる喜びにみちあふれ、楽しく暮らしていました。

その海には、美しい人魚が暮らしていました。彼女には名前がありませんでした。たったひとりの人魚なので、海の仲間は「人魚さん」と親しみをこめて呼びました。

彼女の目はいつも穏やかで、優しいまなざしをしていました。

また、金色の豊かな髪は海風に揺られるたび、星がきらめいているようでした。彼女は海を、生き物たちを愛していました。そんな彼女を海の仲間たちも愛していました。

人魚は自分が気づいたときにはすでにこの姿で、家族はいませんでした。しかし、海に住む生きものたちといつも一緒でしたので、ちっとも寂しくありませんでした。

海の仲間が人魚を大好きになる理由はほかにもありました。それは、歌がとても上手なことです。

彼女の歌声はあらゆる海の生きものたちを夢中にさせました。大いなる海をたたえる歌、旅に行く魚たちを送り出す歌など、海の日常を歌で彩るのでした。

なかでも、子守歌が一番得意でした。彼女が歌えば、どんなに寝つきの悪いヤドカリの子も、クマノミの子もたちまちぐっすり眠りにつくのでした。

ある夜のことです。その日、海はこれまでにないくらいに荒れていました。海の仲間たちは早々に安全な場所へ逃げ、じっとしていました。人魚はそんな海の様子を岩間から心配そうに眺めていました。

すると、海の向こうに何かの気配を感じました。沖のあたりで、丸太や木の板がゆれているのが見えました。よく目をこらして見ると、流木に必死にしがみつく人間がいるのがわかりました。

人魚はすぐさま沖に向かいました。人間が海に沈む前にその身体をかかえて、安全な場所を目指して泳ぎました。

なんとか浜辺にたどり着くことができました。

あたりが暗くてぼんやりとしか見えませんでしたが、どうやら若い青年のようでした。青年の目はかたく閉じられて、ぐったりしていました。肩や頬を叩いても、反応がありません。

人魚は、今にも命のともし火が消えそうな人間を前にして、感じたことのない恐怖におそわれました。声をかけようにも、うまく言葉が出てきませんでした。

人魚ははっと思いつきました。ふるえる手で、包みこむようにして青年の手をにぎり、子守歌を歌いはじめました。

その歌声は、いつものやすらぎを与える歌ではありませんでした。いまにも消えてしまいそうな命を守りたいと強く願いを込めていたのでした。

すると、青年が小さくうめき、口から水を吐き出しました。何度かせきこみ、やがて、ゆっくりと目を開けました。

その瞬間、月の明かりがふたりを照らしはじめました。人魚は目をみはりました。青年の髪や目が自分にとても似ていたのです。青年もじっと人魚を見つめ返しました。

人魚は不思議と愛おしい気もちになり、片方の手で青年の頭を優しくなでました。そして、いつも海の子どもたちに聞かせるように子守歌を歌いました。

青年はしだいにまどろんできて、安心したように眠りにつきました。青年の頬はまるで生まれたての赤ちゃんのように、ほんのり桃色に染まっていました。人魚は「おやすみなさい」とつぶやきました。青年はその声にこたえるように、包みこんでいた手をじんわりにぎりかえしたのでした。

やがて長かった夜が明けました。浜辺に横になっていた青年は、一緒に船に乗っていた仲間が見つけてくれ、助けられました。

その帰りの船の中で、仲間の一人が声をかけました。

「それにしても信じられないな。あの荒波に落ちて、流れ着いて助かるなんて」

青年は、自分がどうやって助かったのかを話しました。海に落ちた後、真っ暗な意識の中で、子守歌で命が助かったことをすべて話しました。気づくと、船の仲間全員がその話に聞き入っていました。

「へえ。不思議なこともあるものだな」

「きっと夢でもみたのだろう。人魚なんておとぎ話さ」

「いや、こんなにきれいな海なら人魚がいてもおかしくないさ」

仲間たちは話し合っていました。

青年はそっとその場を離れ、船の後方からひとりで海を見つめました。かすかにぬくもりの残る頬をなでながら、あの夜のことを思いだしていました。青年の目から一筋の涙がつたいました。

「あの子守歌は、確かに母さんのだ」

そして「ありがとう」と海に向かってつぶやきました。

青年はあの子守歌をくちずさみました。

今日の海は穏やかに揺れていました。

その奥に、自分とよく似た金色の髪がゆらめいていました。