外からの目
子育ては発見の日々です。
先日こどもの通う音楽教室ではっとさせられたことがありました。
質問に対しこどもたちが全くちがう話をすることがよくありますが、先生はそれについてこう言ったのです。
「突拍子もないことを言ったようでも、こどもの中では話が全てつながっているのですよ」
確かに、娘も「雪を見たことがあるか」と聞かれて「おじいちゃんがこの前ね」と別の話を始めたことがありました。
不思議に思いましたが、よく考えると娘にとって雪が降る場所は祖父の住む場所であり、その「思考の流れの説明」を端折っているのです。
これは大人にも十分あり得ることだと思います。
以前、渾身の力を込めて書いた作品がまったくだめだったことがあります。
何が原因かと数か月後に読み返してみると、そもそも話の基盤となる部分が抜け落ちていたのです。
いい話を書いたつもりでも、冷静になってみると利己的な文章で、そのことに気付くのにはずいぶんと時間がかかりました。
思い入れのあるエピソードほど、感情表現ばかりが優先されてしまいます。
頭の中の映像が強いがために、細部の説明が忘れがちになるのです。
こどもはよく、自分の知り合いをすべての人が知っているように話をします。
「○○くんがね」と言っても誰も知らないのにお構いなしです。
しかし、これは公募作品にも見られる現象なのではないでしょうか。
客観視は難しいですが「自分にしかわかっていない」から抜け出す「目」が必要です。
もちろん、公募なので応募前に誰にでも見せるわけにはいきませんが、信用できる方や公募スクールに一度目を通してもらうという手もあるかもしれません。
私自身、未完成のものを誰かに見せる照れや、ちっぽけなプライドが邪魔をしていた時期もありましたが、推敲や漢字が苦手な私のような方にはおすすめです。
シンプルに誰かに見てもらうことが主観から抜け出せる手段ですが、まずは第三者の視線を意識するだけでも、誰にでもわかるように書こうという気持ちになるはずです。
ただ、わかりやすいようにと説明箇所を増やし過ぎると膨大な文字数になるので、省けるところは省く。そのバランスが筆者の腕の見せどころなのかもしれません。