小説新人賞受賞の条件④:自分の文体はあるか


最後は文体が大きな差を生む
文体とは文章のスタイルのこと
何を書くかを重視すると、文体には気がまわらなくなって、読みやすさを阻害しない透明度のある文章を書きたくなる。
一方、どう書くかにこだわると、文体をどうするかという問題は避けて通れない。
では、この文体とはなんだろうか。「です・ます」の敬体、「である・だ」の常体のことも文体と言うが、ここではこれは除く。簡単に言えば、文章のスタイル、あるいは書き癖のこと。
個性的な文体というと司馬遼太郎を思い出すが、「あ、司馬遼太郎っぽい」というのが文体だ。これは歌にたとえるとわかりやすい。声の出し方や節まわしなど人によって歌い方はいろいろだが、この文章版が文体だ。
意味は同じでも、書き方は百人百様
同じ英文を訳した翻訳文を読むと、文体の違いがよくわかる。
一度だって僕は、奴が歯を磨くのを見たことがなかったな。まるで苔でも生えてるみたいな、すげえ歯をしてるんだ。(中略)そればかしじゃない、性格だってひでえもんよ。
(野崎孝訳、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』)
こいつが歯を磨いているところを一度として目にしたことがない。歯はいつ見ても、まるで苔が生えているみたいで、ぞっとさせられた。(中略)おまけに性格がよくない。
(村上春樹訳、サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)
どちらも名訳だが、感じは違う。
文体は「どう語るか」と密接にかかわっている
吾輩は猫である。名前はまだ無い。
「吾輩は猫である」は1905年(明治38年)に発表された小説。
有名な書き出し〈吾輩は猫である。〉はこの時代の文章観で書けば、〈吾輩は猫なり。〉と書いてもおかしくない。それを〈吾輩は猫である。〉と書いた時点で、この小説は今までの古い小説とはちょっと違うよ、新しい試みをするよというメッセージでもあった。文体でそれを表したと言える。
ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。
『赤頭巾ちゃん気をつけて』は1969年(昭和44年)に発表され、その年の芥川賞を受賞した小説。饒舌な語り口調の文体が特徴的。当時としては相当斬新な文体。『ライ麦畑でつかまえて』の影響が指摘されるが、大人と子どもの中間の主人公があてもなくさまよう内容に合った文体はこれしかなかっただろう。この文体なくして爆発的ヒットもなかった。
これからは文体が人との差になる
村上春樹は文体についてこう語っている。
日本のいわゆる「純文学」においては、文体というのは三番目、四番目ぐらいに来るみたいです。(中略)たとえば心理描写とか人格設定とか、そういう観念的なものが評価され、文体というのはもっとあとの問題になる。
でもそうじゃなくて、文体が自在に動き回れないようでは、何も出てこないだろうというのが僕の考え方です。(川上未映子訊く村上春樹語る「みみずくは黄昏に飛びたつ」)
また、別のページでは〈文体が人を引きつけなければ、物語は成り立たない。〉とも言っている。どう書くかと言ったとき、これまでは文体以外が問題になこ
とが多かったが、これからは文体が人との差になるかもしれない。
人と違うのならうまくなくていい
文体を作った作家と言えば夏目漱石だが、夏目漱石は文体というより、英語の影響もあって日本語そのものを変えてしまったまさに国民作家だから、そこまで大それたことは望まない。
ただ、自分だけの文体を持っためには、どういう方向を目指せばいかは知っておきたいところだ。再び歌にたとえると、聴く人を魅了する歌は、以下の3点に集約されそうだ。
- 聴く人が気持ちいい。
- 必ずしも上手でなくていい。
- 人とは違う。
文章でいえば、読むと気持ちよくてページをくる手が止まらなくなる文章で、必ずしもうまくはないが、個性的な文章だろう。「うまい」より、「気持ちいい」「人と違う」を目指そう。
意識的に使う文体
文体といっても意識的に変える文体と、無意識に出る文体がある。前者は「この作品はこの文体で」のように使い分けられる。作品によって変えられるものだ。
無意識に出る文体
無意識に出る文体のほうは、作者の癖のようなもの。作者本人も自覚していないことがあり、パスティーシュの手法で文体模写をされて初めて気づくことも。
自分の文体を持つには
速読せずに読み切ること
「今日だってどうせ来ないに~」とあれば、「~」には「決まっている」が入るとわかるが、この手の「端折り読み」を続けている限り、日本語の型は身につない。文体どころか、正しい日本語が書けなくなってしまう。速読はしない。一文を最後まで読み切る。それさえ守れば、文体はおのずとでき上がる。(小説講座講師・国語教師: 鈴木信一)
読んでさえいればいい
豊かな読書体験なしに自分の文体を作ることはできません。てっとり早く自分の文体を持ちたいなら、「美しい文章だな」と思う作家の本を1 冊と、「面白い文章だな」と思う作家の本を1 冊選び、その2冊をくり返し読むこと。1 人だけの影響を受け過ぎるとコピーになってしまうので要注意。(書評家: 相川藍)
文体が個性的な3人の小説家
村上春樹
「完璧な絶望が存在しないようにね。」僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向ってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少くともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。
村上春樹『風の歌を聴け』
川上未映子
〇 卵子というのは卵細胞って名前で呼ぶのがほんとうで、ならばなぜ子、という字がつくのか、つていうのは、精子、という言葉にあわせて子、をつけてるだけなのです。図書室には何回か行ったけど本を借りるための手続きとかがなんかややこしくってだいたい本が少ないしせまいし暗いし何の本を読んでるのんか、人がきたらのぞかれるしそういうのは厭なので(後略)
川上未映子『乳と卵』
町田康
安政四年、河内国石川郡赤阪村字水分の百姓城戸平次の長男として出生した熊太郎は気弱で鈍くさい子供であったが長ずるにつれて手のつけられぬ乱暴者となり、明治二十年、三十歳を過ぎる頃には、飲酒、賭博、婦女に身を持ち崩す、完全な無頼者と成り果てていた。父母の寵愛を一心に享けて育ちながらなんでそんなことになってしまったのか。あかんではないか。
町田康『告白』
※本記事は「公募ガイド2018年4月号」の記事を再掲載したものです。