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文章構成法の奥義②:段落と段落の関係を知る

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文と文の関係ならわかるか

たとえば、以下のような文があったとします。

 

昨日、インド料理専門店に行った。明日も行こうと思った。

 

特に問題はなさそうですが、先行する文と後続の文との間に、やや大きめの溝があります。それを埋めてみましょう。

 

昨日、インド料理専門店に行った。さすがに本場の味は素晴らしく、明日も行こうと思った。

 

では、こんな文はどうでしょう。

 

昨日、ブラジル料理専門店に行った。十万人もの人がいた。

 

こうなると、文間に溝があるというより、溝が深すぎてわけが分かりません。
前後関係から、間に入るべき文を適当に考えてみます。

 

昨日、ブラジル料理専門店に行った。
店内ではサッカー中継を放映しており、画面を見ると、十万人もの人がマラカニアンスタジアムを埋め尽くしていた。

 

このように、文と文の関係を考えたり、文と文の隙間を埋めたりするのはさほど難しい作業ではありませんが、これが段落と段落の関係になると、少し難度が上がります。

段落を要約し、主題を明らかに

自分で書いた原稿を読み返してみても、段落と段落の関係が分からないとすれば、それは段落自体がまとまっていないからでしょう。

川渕三郎氏は、東京オリンピックで逆転勝利を収めたアルゼンチン戦において、劇的同点ゴールを決めた元日本代表フォワードである。当日は朝から小雨が降る悪天候だった。(a )
同氏は、二〇〇二年、日本サッカー協会会長に就任すると、翌年、会長に代わる愛称を公募し、採用作に「キャプテン」を選んだ。就任前はJ リーグチェアマンだった。(b)
応募は五十通しかなく、パスの供給量は少なかった。しかし、氏は「キャプテン」という熱い呼称を得た。(c )

 

段落は、改行によって区切られた一つの意味のまとまりですが、段落を構成する個々の文が、その段落の主題にあっているかどうかを確認するためには、段落を要約して主題を明らかにする必要があります。
では、前出のまとまりのない段落を強引に要約してみましょう。

 

(a)川渕三郎氏は、元日本代表フォワードである。
(b)会長に代わる愛称を公募し、採用作に「キャプテン」を選んだ。
(c )応募は少なかったが、氏は「キャプテン」という熱い呼称を得た。

 

この主題に照らし合わせてみると、主題から逸れた文があることに気づきます。
それを削ってみましょう。

川渕三郎氏は、東京オリンピックで逆転勝利を収めたアルゼンチン戦において、劇的同点ゴールを決めた元日本代表フォワードである。(A)
同氏は、二〇〇二年、日本サッカー協会会長に就任すると、翌年、会長に代わる愛称を公募し、採用作に「キャプテン」を選んだ。(B)
応募は五十通しかなく、パスの供給量は少なかった。しかし、氏は「キャプテン」という熱い呼称を得た。(C)

 

(A)と(B)の論旨がはっきりしたことで、(一応は)話が分かるようになりました。

段落と段落の関係を整備する

しかし、道筋が見えたら見えたで、今度は話が着地していないことがあらわになりました。
「『日本サッカー協会会長』に代わる愛称を公募し、『キャプテン』という熱い呼称を得た」ことは分かります。しかし、
「だから何?」がない。
三段論法で言うと、「MはPである」「SはMである」だけ言って、「だから、SはPである」がないというか。
また、最初に「川渕三郎氏は、元日本代表フォワードである」と書いていますが、この一文と呼応する文脈がないので、段落(A)が浮いています。
一読して分かるとおり、この例文は愛称公募の話ですが、枕としてふられた話題は東京オリンピックの話ですので、この枕と文章全体のテーマとがどう関わるのかが見えないわけです。
では、それを補ってみましょう。

川渕三郎氏は、東京オリンピックで逆転勝利を収めたアルゼンチン戦において、劇的同点ゴールを決めた元日本代表フォワードである。
同氏は、二〇〇二年、日本サッカー協会会長に就任すると、翌年、会長に代わる愛称を公募し、採用作に「キャプテン」を選んだ。
応募は五十通しかなく、パスの供給量は少なかった。しかし、氏は「キャプテン」という熱い呼称を得た。
応募者からのキラーパスをスルーせずに決めたその頭は、四十七年前の劇的ゴールを彷彿とさせる知のダイビングヘッドだったと言えよう。

 

話の道筋とは?

文章の一つの型に起承転結があります。これは便利な面もあります。
たとえて言うと、起承転結はサインプレーのようなお約束です。
サッカーを知らない子に、フィールド内を自由に動けと言っても、どう動いていいか分からないと思いますが、 サインプレーによって、「Aくんがボールを持ったら、Bくんはおとりとなるべく右に走り、空いたスペースにCくんが走り込む」といったように型を教えれば形にはなります。
これと同じで、書きなれない人や読んだ経験自体があまりない人の場合は、書きたいことを起承転結で構成すると、それなりにまとまります。
しかし、毎度毎度サインプレーというわけにはいきませんし、いいパスの出所が見つかったのに、型を重視するあまりそれをしないのではもったいない。
こうなると、起承転結という型が枷になってきます。書けるようになると起承転結を考えなくなるのは、そうした理由からでしょう。
では、文章に型はない? 文章そのものにはないかもしれませんが、思考の道筋には型があります。
思考の道筋と言うと、アリストテレスの三段論法のような、
「人間はいつか死ぬ」
「私は人間である」
「ゆえに私はいつか死ぬ」
といったものを思い出しますが、そんなに難しい話ではなく、私たちは何かを考えるときは、無意識に論理的に道筋をたてて考えているでしょう。
たとえば、ある人がこんなことを考えたとします。
「お腹が空いたな。一時間後に来客があって、二時間は食事がとれないな。じゃあ、今のうちに食べちゃおう」
ある前提があり、そこになんらかの条件が加わり、その結果、どうしたらいいか答えを出しています。これも一つの論理的思考でしょう。
理論的に道筋をたてて考えるには、少なくとも三つの柱が必要です。
エッセイでも小説でも、話の骨格を取り出してみると、「こう思われているけど、こうだから、こうじゃないか」とか、「何が、どうして、どうなった」のように、三つの柱で構成されていたりします。
昔話「桃太郎」だって、「桃太郎は鬼が島に行きました。終わり」では、話が着地しません。
逆に言えば、まず着地点を見出し、そこに向かう前段が二つあれば、そして、それらが論理的な関係であれば、話はすっきりまとまると言えます。

 

※本記事は「公募ガイド2011年9月号」の記事を再掲載したものです。

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