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描写がかけなければ小説にはならない2

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描写の効果

話に幅を持たせる

「ねえ、見てみて。どの子もすごくかわいいよ」
引越し会社の段ボールのなかに古い毛布が敷いてあった。母猫は横になり、用心深そうに交互に秀美と朝世を見あげた。
細く締まった筋肉質の猫だが、腹の皮だけがすこしたるんでいた。明るい栗色の毛並みは密で美しく、グリーンの目には黒い瞳が縦長に浮かんでいる。
「お母さんもりりしいね。どれもかわいくて迷うなあ」
三匹の子猫はてのひらにのるほどちいさかった。二匹は元気にじゃれあっていたが、残りの一匹はスフィンクスのように澄まして、やんちゃな兄弟を見つめていた。その一匹だけ毛の色は青みがかったシルバーで、落ち着いた賢そうな表情をしている。俊樹がやってきて中腰で段ボールをのぞきこんだ。
「おー、ちびはみんな元気だな。そこの端っこの銀色だけ、格好つけてるな」

(石田衣良「ふたりの名前」)

三つのセリフの間に、やや長めの情景描写が挿入されています。
こうした描写を削り、話をさくさく進めることで読み手を心地よくさせる場合もありますが、そんな書き方をしてばかりいると、筋しかない、なんの情感も醸さない話で終わる危険があります。
描写は話が前に進むのを阻む要素ですから、多すぎれば話は停滞しますが、逆に言えば、描写は話が進み過ぎるのを抑えてくれますし、話に膨らみも持たせてくれます。

「宿題があるんじゃないの?」と母親の和美に小言を言われながらリビングに居残ってテレビを観ていた加奈子は、ドラマがコマーシャルに切り替わるのと同時にセッちゃんの話を始めたのだ。
「ソッコーだよ、速攻で嫌われちゃったの、みんなから」
「なんで?」と和美が訊くと、加奈子は「さあ……」と首をかしげ、口の中のクッキーを紅茶で喉に流し込んで、「よくわかんないけど」と付け加えた。(中略)
コマーシャルが終わり、テレビの画面はドラマに戻る。和美はまだなにか言いたそうだったが、加奈子は通せんぼをするような手振りで話を打ち切った。
キムタクだったかソリマチだったか、雄介には格好つけて斜にかまえただけの男にしか見えないが、とにかく学校でいちばん人気のある俳優が主演するドラマで、これを観ていないと友だちとのおしゃべりに入っていけないのだという。

(重松清「セッちゃん」)

クッキーを食べながら紅茶を飲み、人気タレント主演のドラマを見ているという背景は、この小説をあらすじ化するようなときには真っ先に削られる部分でしょう。話の主旋律ではありません。
しかし、要らないかというと、そんなことはありません。映画にしろ絵画にしろ、背景がしっかり描かれていないと情景が生きないということがありますが、小説も同じで、リアルに場面を浮き立たせるためには、背景の描写も重要です。
ただ、背景にウェイトをかけてしまうとメインのシーンが沈んでしまうので、その点には注意してください。

イメージやテーマの隠喩

じゃこじゃこのビスケット、は母の考えた言いまわしで、削ったココナッツだの砕いたアーモンドだの、干した果物のかけらだのが入ったビスケットのことだ。舌触りが悪く、混乱した味がするので、我家の人間はみんな嫌っていた。

(江國香織『じゃこじゃこのビスケット』)

じゃこじゃこのビスケットは、若いことは愉快なことではなかったという十七歳の主人公の気持ちを象徴したもので、作品のタイトルにもなっています。
その意味では同作に不可欠の要素ではありますが、ストーリー展開という観点で見ると、じゃこじゃこのビスケットがなくても話は成り立ちます。
つまり、ストーリーのための描写ではなく、主人公の気分やテーマを表すための描写ということでしょう。

刑務所を出たHが最初に思ったのは、信号機のランプが見慣れないものに変わっているということだった。
信号の粒子が、粗い。粗くてつぶつぶしている。バスが次の信号で停車すると、それは十年前にみたのと同じランプで、どこか古ぼけてみえる。
さっきのあの信号機の光こそが「二十一世紀」だ。なんとなくそう思った。

(長嶋有「青色LED」)

この導入部も、なくてもストーリーは成り立ちます。つまり、「LED」はストーリー展開の要から出てきた小道具ではなく、刑務所にいた空白の十年を象徴させた小道具と言えます。

描写と時間

「再生」と「停止」ボタン

そのとき、ステージわきに立っている女性が片手で耳のイヤホンを押さえた。口元につきでたマイクにむかってなにか返事をしてうなずく。黒いタイトスカートのスーツをぴしりと着た小柄な女性だった。髪は底光りするような輝きでうしろに束ねられている。年齢は二十代なかばだろうか。彼女は軽い身のこなしでテーブルを縫ってやってきた。

(石田衣良「誰かのウエディング」)

中盤の「黒いタイトスカートのスーツをぴしりと着た小柄な女性だった。髪は底光りするような輝きでうしろに束ねられている。年齢は二十代なかばだろうか」のあたりでは時間が止まっている感じがしますね。
一方、この前後は「イヤホンを押さえた⇒うなずく⇒やってきた」というふうに人物が動いていますから、時間も動いているように感じます。しかも、現実と同じような速さで動いています。
このように描写中は時間が止まっているか、または、現実と同じように一秒ずつ時間が進み、後戻りしたり、急に進んだりはしません。

バーをでると、翌朝のんびりできるので、ラブホテルより自分の部屋のほうがいいと、彼女ははっきりいった。(中略)
彼女とのセックスはいつもの平均的なセックスだった。期待しているあいだのほうが楽しいという、ゆきずりの場合によくあるパターンだ。
明け方、慶司は女のいびきで目が覚めた。

(石田衣良「スローガール」 )

こちらは、作中の現在を書く描写の手法ではなく、あらすじ的に出来事をなぞっています。説明的です。
この書き方の場合、「明け方」と書けば「明日」になりますし、「十年が過ぎた」と書けば一瞬で十年が経ちます。

動から静へ、静から動へ

陸軍から払い下げてもらった軍服のズボンを捲まくりあげて沢に入り、小さな淵のところで、痺れから醒めかけた大物のサクラマスを掴んだ時のことだ。
同じマスに手を伸ばした別の誰かと、額どうしがぶつかった。
「痛いでっ」と言って顔をあげたすぐそばに、おでこをさすっている若い娘の顔があった。
見た瞬間、アメの毒が回ってしまったみたいに体が痺れた。
しばらく言葉が出てこなかった。
息が詰まるほどに器量のよい娘に、富治には見えた。しもぶくれの耳から顎にかけての色白の頬が、思わず指でつねるか、ぱくりと噛んでしまいたくなるほど、ふっくらと可愛らしかった。それ以上、何がどうと説明するのは難しい。文字通りの一目惚れというしかなかった。

(熊谷達也『邂逅の森』)

引用文では、前半は主人公の動作をとらえつつ、物語を動かしています。ビデオで言えば「再生ボタン」が押され、現実と同じ速さで出来事が再現される感じです。
ところが、後半では一転、作者は時間を止め、娘の特徴の中から「色白の頬」一点を取り上げ、娘を描写をしながら主人公の一目惚れぶりを描いています。ビデオは「一時停止」になっています。

奈穂美はペットボトルに直接口をつけて飲んでいく。(中略)あらわになった喉の筋がゆっくりと動く。肌の白さは喉からブラウスの襟元にまでつづき、肩の線が始まるかどうかのところの曲線が、こんなふうに思いたくはないが、なまめかしい。ブラジャーのレース模様が透ける。ブラウスの襟ボタンを留めてほしい。
もう朝夕は息が白くなるのだから、ブレザーの下にベストかセーターを着て、胸を隠してほしい。(中略)
「あのさあ」
ペットボトルをテーブルに戻して、奈穂美が言った。孝夫をまっすぐに、強いまなざしで見据えていた。
「言いたいことがあるんだったら、言ってくんない?」

(重松清「パンドラ」)

前半部分は、思春期の娘をもった父親の心情が書かれているだけで、物語は動いていません。時間の感覚もありません。しかし、ビデオの画面がストップモーションになっているからこそ、読み手は筋に追われることなく、落ちついて、しみじみと感慨にふけることができます。
で、「あのさあ」というセリフで一転、エンジンがかかります。誰かが「再生」ボタンを押し、「一時停止」になっていた画面を動かしたかのようです。
ということで、ストーリーが同じでも、描写いかんで秀作にもなれば駄作にもなります。描写はそれぐらい重要です。
皆さんも実際に書きながら、読みながら、日々研究してみてください。

 

※本記事は「公募ガイド2012年1月号」の記事を再掲載したものです。