超かんたん文章術1:自由とは、ノープランではない
絶対という型はない
文章を書くには型がある、と言われています。有名なところでは起承転結がそうです。これは便利な道具ではありますが、唯一無二というものではなく、有効な型のひとつに過ぎないと考えたほうが正解でしょう。
あまり文章を書いたことがない人、読むということをほとんどしない人の場合は、起承転結で書けばそれなりにまとまるでしょう。
しかし、書きなれてくるにつれ、今度はその型が枷になってきます。形式が自由な発想を妨げるわけです。
特に短文や掌編、ショートエッセイのようなものの場合、型はないと考えたほうがいい。少なくとも、いつもいつも「起・承・転・結」がセットになってなくていいです。起承転でもいいし、起転結でもいい。もっと言うと、起転でも承転でも転結だっていい。
起承では尻切れのように思えますが、そういう文章もなくはないです。起結では中身がなさそうですが、始まりがあって終わりがあるのですから、これでも文章は完結します。
つまり、こうでなければいけないという型はなく、必要なのは、《最後の一文を書いたときの終わった感》だけと言ってもいいです。
理屈では書けない
しかし、そう言われても、原稿用紙を目の前にして頭が真っ白になってしまうこともあるでしょう。
書きたいことがあるような、ないような。なくはないけど、順序よく、まとまった形では出てきてくれない。
そういうときは型のようなもの、数値を代入すればたちどころに名文が完成するような形式があったらいいのにと思い、指南書にあたったりします。
そこには「なるほど、そのとおりだ」と思わせてくれるヒントがたくさん書かれていると思います。
でも、「なるほど、そのとおりだ」とは思えても、これがまたそのとおりには書けなかったりします。「なるほど、そのとおりだ」という方法論はだいたいが理屈だと思いますが、文章というのは理屈では書けないものだからです。少なくとも、いい文章、おもしろい文章は理屈では書けません。
たとえば、自由にダンスをするとします。そのときは「右足を出して左足と交差させて」などとあまり頭では考えないものでしょう。体が覚えてい る動きに任せて、なかば無意識に踊る。
理屈で体を動かしているわけではないですし、変に頭で体を動かそうとすれば、とたんに動きがぎくしゃくするはずです。
文章にも似たところがあって、書けないと型が欲しくなりますが、そうして頭で考えてしまうと余計に書けなくなってしまうということはあります。
書く前に素材を並べてみる
では、どうしたら自由に書けるかというと、考えなくても話を完結させられるくらい読むということに尽きます。
それしかないと言ってもいい。ダンスだって、最初は誰かが踊るのを見て、それを直感で真似ることから始まったはずです。
書く場合も同じです。読んで、真似をするお手本を自分の中に作る。これは絶対的に必要です。
ただ、読むと言っても、いきなり大作を書こうというのでもなければ、そんなに大げさな話ではありません。普通の読書経験があればOKです。
それからもうひとつ、書く前に、頭にあることを書き出すこと。
原稿用紙を前にして、うんうん唸っている人は、書きあぐねているというよりは、準備不足でしょう。
何も考えずに書き出して、気がついたら完璧に仕上がっていた。それができればいいですが、普通はそうはいきません。頭の中にある素材を紙の上に並べてみて、どれとどれを使って、どんな料理を作ろうか、じっくりと考えてみる必要があります。
自由に書くというのは、型にとらわれずに書くということであって、ノープランということではありません。
※本記事は「公募ガイド2012年3月号」の記事を再掲載したものです。