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作家になる技術1:自分に合った文学賞を選ぶべし

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文学賞に何を求めるか

初めて小説を書き、公募ガイドを見たら枚数と締切がちょうど合う賞があり、応募してみたところ受賞。とんとん拍子で人気作家に――。
本誌二十余年の歴史の中では、このような人も何人かいました。しかし、大半の人はそうはいきません。十年に一人の天才でもなんでもない私たちには、自分を知り、相手を知り、そこに向かってさらに自分を磨くという戦略が必要です。
では、最初に自分を分析することから始めてみましょう。

質問1 あなたは文学賞に応募し、その結果、どうなりたいですか?

同じ応募者でも、文学賞に求めるものは千差万別です。主だったものを挙げてみましょう。

1.作家として生きていきたい。
2.賞金がもらえればいい。
3.受賞して本が出せればいい。
4.作家になりたいのはやまやまだが、今は実力試しという段階。

レベルに合った新人賞選び

1の方向に向かいたい人は、大手出版社が主催する新人賞がいいですね。
ここで言う大手出版社とは、賞の母体となる雑誌、たとえば「小説すばる」とか「野性時代」とかを持っていて、なおかつどの書店にもある文庫のレーベル、新潮文庫とか講談社文庫とかを持っている版元になります。
そうした賞を受賞すれば、単に受賞者というだけでなく、担当編集がついて二人三脚でやっていけます。担当編集は小説の編集、出版、販売のプロですから、これは大きな力になります。
このあたりのシステムは、プロ野球の高卒ルーキーが何年かかけて成長し、やがて一軍で活躍するのと似ています。
とはいっても、育成の学校のようなものとは違いますので、育成してもらえるという受け身の姿勢では取り残されてしまいます。しかし、作家として生きていきたいのなら、まずはこの受賞という門に入るのが近道ですね。
2~4の方向で努力したい人は、作家デビューに直結した登龍門と呼ばれるような賞を選ぶ必要はなく、2は賞金を掲げている賞の中から、3は受賞作の出版をうたっている賞、または過去の事例からして出版する可能性の高い賞の中から、4は比較的ハードルが低そうな賞の中から、自分のレベルに合った賞を選べばいいわけです。
2~4の方向は一見すると遠まわりですが、〝単なる賞金狙いだったが、求められるまま次回作を書いているうちに人気作家になってしまった〟とか、〝地方発の小さな賞を獲ってはずみがつき、翌年、大手出版社の賞を受賞した〟というような例もあります。
「隗より始めよ」ではないですが、背伸びせず今の自分に合った賞から始めるというのもひとつの手ですね。

求められるジャンルにも注意

どの文学賞に応募するかを考えるときは、どんなジャンルの小説なのかも重要になります。いくら優秀な作品であっても、ジャンル違い、系統違いというのでは受賞は難しいですね。
賞のタイトルに「ファンタジー」「ミステリー」「ホラー」のように表示されていればジャンルを間違えることはないはずですが、問題は純文学系ですね。
今は純文学とエンターテインメント小説の境界はないに等しいのですが、新人賞の場合にはなぜか純文学系と言われるものがあり、それは文學界新人賞、新潮新人賞、群像新人文学賞、文藝賞、すばる文学賞など、狭義の文芸誌(文学研究を主眼とする雑誌)を母体とする賞。および、太宰治賞です。
勘違いしやすいのは、「小説すばる」や「小説新潮」など「小説○○」とつくもの。これは文芸誌というより読み物。
「オール読物」も広義には文芸誌ですが、誌名の通り、内容はエンターテインメント系の小説が中心の読み物です。
雑誌の趣旨や傾向は、そこに掲載された小説や執筆陣の顔ぶれを見ればだいたい推測できます。新人賞はその亜流のような作品を求めるわけではありませんが、仮に時代小説専門の雑誌があり、「時代小説新人賞」という賞が創設されたなら、純文学では受賞するはずがないと気づいてください。公募というのは、主催者が求めているものをいかに洞察するかを競うものでもあるのです。
主催者が何を求めているのかがよく分からない人は、分かるまで過去の受賞作または同じ系統の小説を読みましょう。
同じミステリーでも、謎解き中心の本格推理を求めている賞と、サスペンスを含む広義のミステリーでもいい場合があり、読めばその違いが実感できます。頭ではなく体で覚える感じです。
というより、ミステリーならミステリー、ファンタジーならファンタジーを読み過ぎて、それが高じて書き手になってしまうというのが普通であり、良き読者でない人が良き作家になることはないと思ったほうが賢明でしょう。

誰のために書くのか

もうひとつ、別な角度から同じような質問をしてみましょう。

質問2 あなたは、どのような作家になりたいと思いますか?

5. 自分が書きたいことを書く作家
6. 読者が読みたいことを書く作家

5.と答えた方が圧倒的多数だと思います。誰だって自分自身が書きたいと欲するものがあって作家を目指したはずですから、それは当然でしょう。
そのこと自体は問題ありませんが、書かれたものが、結果的に、
「他人が読んだらつまらない」
「他人が読んでもおもしろい」
かどうかによって評価は大きく変わってきます。
戦前までは、書きたいことを書いても売れました。日本人の大半が「戦争・貧困・差別」のいずれかを経験してきましたから、この三つのどれかを題材にすれば多くの人に共感されました。
しかし、今は個人主義の時代ですから、読者に「秀作みたいだけど、私には関係ない」と思われたら終わりです。書かれたことは個人的なことであっても、不特定多数におもしろがられなければいけません。小林秀雄的に言うと「社会化された私」ですね。
それでもなお自分の主義・主張を真正面から書きたい、赤の他人のために作り話を書く気はないという方は、それはそれでいいです。自分の過去を整理するために書いても、過去を確認するために書いても、自分が生きた証を残すために書いてもいい。しかし、それだけが目的なら第三者の評価は求めようがありませんから、職業作家になることは難しいと考えてください。

職業作家とプロ作家

本来は職業でないもの、たとえば絵や写真を生活の手段とする者は、かつては職業画家、職業写真家と言い、芸術家としての画家や写真家と区別しました。
職業作家、つまり今で言うプロ作家も同じで、かつては仕事として小説を書いている人――明治期であれば戯作作家、大正以降は大衆小説家を指しました。
かつての職業作家というと、生活のために仕方なく書いていた、割りきって書いていたという印象があり、社会的な地位も低かった印象があります。漫画『三丁目の夕日』に出てくる駄菓子屋の店主、茶川竜之介さんがそうですね。
茶川さんは東大文学部出身、芥川賞連続29回落選という設定で、本人の志望は純文学ですが、口に糊するために少年向けの冒険小説を書いています。
しかし、少年読者のファンレターにやる気になり、連載小説が単行本化されて有名人扱いされたりして、大衆小説を一段低いものと見ていた自分を反省するのですが、当時はことほどさように小説と言えばイコール純文学の時代でした。
しかし、「芸術性/商業性」という二項対立の時代は終わりました。一部にはまだ商業性ゼロの実験的小説や文学性ゼロのポルノ小説もありますが、大半の小説には芸術性と商業性の両面があります。
それはプロ野球選手は職業として野球をやってはいても、決して見せ物ではないというのと同じです。

プロ作家は「自分」は書かない

親友が過労で死んだ。クラスメートの中で故人になったのは彼が最初だ。今までは死など遠い未来のことだと思っていたが、ふと、僕はこのままでいいのか、これまでの人生はなんだったのかという思いに駆られ旅に出る……。
一読して分かるように、これは自分探しです。自分探しを書いてもいいですが、それで読者が楽しめるかどうか。

作家が自分のことを語る。その中に読者が読者自身を見つければ、その作品は読まれるということにもなります。しかし、もしも読者が「もうこの作品のどこにも自分に関係のあることはない。この作家が勝手に自分自身を語っているだけだ」と思ってしまったら、読者は離れます。自分では語っているつもりになっても、人からは耳を傾けてもらえない——そしてそのことに気がつけないという“作家の悲劇”はこうして起こります。

(橋本治「他人のため」)

むろん、書きたいテーマはあるでしょうし、そもそもそれがなければ書こうなどとは思わなかったでしょう。しかし、プロであれば優先すべきは他人が読んでもおもしろいかどうかであり、「私」は奥に引っ込めておくべきです。「私」の濃度は、物語の背後から微かに匂うぐらいがちょうどいいと思ってください。

 

※本記事は「公募ガイド2012年12月号」の記事を再掲載したものです。

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