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書くために学ぶ文学史2:形式・技術のアーカイブス2(渡部直己教授インタビュー)

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書くために学ぶ文学史1のつづき)

ブレてよいか悪いか

――三人称一元の場合、語り手は視点人物からどの程度離れることができる?

そこは腕の見せどころなわけよ。下手な人が書いちゃうと、一人称と変わらない。三人称一元で「彼は」とか「彼女は」と書いたのを、全部「私は」に変えたとき、小説の印象が変わらないとするなら、それは下手なんだよ。それはだめなの。

――だったら一人称で書けと?

そういうこと。三人称をとると、さっきも言ったように、視点人物に対する距離をとれるんだよね。一人称の場合は語り手と主人公がベタッとくっつきやすいけど、三人称一元なら語り手と主人公との間に距離を持つことができる。

――三人称一元の場合、ビル内にいる主人公をビルの外から描写できる?

それは「一元」という定義からして無理。で、主人公が知らないことは間接的に伝えなければいけないね。手紙で知らせるとか、人の噂でこうだとか、新聞記事でとか。一人称と同じ限界を持っているわけだから。
そういう狭さがかえって作品を濃密にすると考えた場合には、三人称一元がいい。だから私小説では三人称一元がちょうどいいのよ。いいとこ取りだから。

――志賀直哉の『暗夜行路』では最後に主人公の時任謙作が人事不省に陥り、視点人物を失った語り手は謙作の姿を外側から描写していますよね。

あれは初めから視点がブレている。冒頭は「私」で、途中でも妻の視点に移ったり。その辺が、一種スリリングなところなのよ。

――すると、視点はブレてもいいということになりませんか。

問題はね、規則的なものではなくて、効果です。それがかりにブレてるとするでしょ、そのブレが良いか悪いかなんですよ。ブレちゃいけないという問題じゃない。小説をどう書くかは全く自由だから。いくらでも約束は破っていい。必然性があって、その作品の魅力になっていれば視点はブレてかまわない。一元視点だからブレちゃいけないとか、そういう問題では全くないんですよ。
たとえば、メルヴィルの『白鯨』も、一人称で始まって三人称になる。そういう小説はいくつかある。それを「四人称」と言うんですよ、一+三は四だから。
ドストエフスキーの『悪霊』もそうです。一人称から始まって、いつのまにか三人称。でも、だからって誰もブレてるとは言わないでしょ。それはうまいからだよ。

――逆に下手だと、視点のブレがクローズアップされてしまうんでしょうね。

そういうこと。フローベールの『ボヴァリー夫人』だって、「私たちは自習室にいた」という一人称複数で始まる。でもいつのまにか完璧な三人称多元になっている。『蒲団』の場合も、さきほど言ったように、三人称多元なんだけど、それには気づかない。それぐらい主人公と語り手の気分が一致している。そこがうまく書けている。だから、登場人物の芳子のほうに視点が移っていてもあまり気にならない。技術的にはあそこはチョンボなんだけれど、でもそれが疵になってない。誰もその未熟さをとがめない。それは全体に力があるからです。

読書案内としての文学史

――今、語り手という言葉が出てきましたが、時代を経るごとに語り手の存在が希薄になっていくのはなぜですか。

近代小説というのは、誰が語っているのかを意識させない方向に出発、洗練されてきたものだから。語りの中性化というのが、近代小説のリアリズムを支えてきたわけ。誰が語っているのかということを意識させず、内容に没頭させる。二葉亭あたりはまだ未熟で、語り手が前に出てきちゃう。
この語り手の存在を読者の意識からまず消す。そして、読者に語られたものだけをなぞることができるようにする。それがいわゆる「リアリズム」の理想。

――視点の話に戻りますが、視点がブレている自覚がない人はどうすればいいでしょうか。

僕の本を熟読するか(笑)、やっぱり明治の小説を読むべきですよね。あれはほとんど三人称多元だから。
今の若い人は、三人称多元の利点や欠点をおそらく知らない。一人称か三人称一元。つまり一元視点しかとれない。
または少しエンターテインメントみたいな大ぶりな話ね。いろんな場所でいろんな人がいろんなことをやるという非常に幅の広い小説、推理小説でもいいけど、そういうのを書くときには三人称多元のほうがいいんだけど、そうするとね、いくつもの人物に視点が移るさいに、下手な人はとてもくさい。視点が勝手に移ったり、視点の移動の仕方というのがぎくしゃくする。明治の小説は視点移動をいかに洗練するかという方向に動いているから、これは割とためになるかもしれないね。

――明治の文学はとっつきにくい印象があります。

文学史を構成するような本、つまり今に残っている本は、初めは多少とっつきにくくても、ちゃんと読んでみると必ず得るものがある。嫌いでもそれをぐっと我慢して読んでみる。そうするとね、必ずいくつか新鮮なポイントが見つかる。
そういう意味で古典って強いんですよ。
そうした古典が今に残っているのは、内容のせいではない。内容が残らせている割合なんて二割か三割くらいですよ。少なくとも形式と内容との絡み、極言すれば形式が残らせているんですよ。

――ただ、内容で感動するということもあるのでは?

もちろんね、話の内容に感動することは大事ですよ。だけどそれだけじゃないんだってことなんですよ。もっと言うと、同じ話なら必ず感動するかって言ったらそうじゃないわけでしょ? その話に感動するということは、その話に絡む形式がうまく感動を導いているんですよ。つまり、形式的な問題と内容的な問題っていうのは必ずセットになっているはずなの。だからね、感動したのならもう一歩立ち止まって、どの部分が感動させているのかとか、そういう形式的な特性みたいなものへ少しでも目を走らせるようになると、そのうち自ずとわかってくる。
だけどそれは意識しないと無理です。意識してそういうふうに読まないと。あるいは、意識する暇もなくたくさん読むかどっちかですね。まあ、両方だと一番いいんですけど。

――手当たり次第に読む?

文学史っていうのは形式や技術のアーカイブスと思えばね、なかなか重宝なものですよ。何も知らないでいきなりいろんなものをアットランダムに読むわけにいかないでしょ? そういう意味では良質な読書案内として文学史があると、そう思ったらいいんじゃないですかね。

 

※本記事は「公募ガイド2013年4月号」の記事を再掲載したものです。