完全!文章系応募マニュアル3:梗概のなぜと書き方解説


梗概はなぜ必要か?
梗概、あらすじ、作品紹介、概要、シノプシス……。賞によって言い方は様々ですが、要するに、作品をコンパクトに要約したものです。
さて、長編文学賞では梗概の添付が義務づけられているものがありますが、梗概はなぜ必要なのでしょうか。何人かの下読みの方に聞いてみました。
「ぼくは、梗概は事前には読みません。下読みだからといって、結末の分かった話では読む気になりませんから」
一方、別の意見も。
「梗概はざっと目を通す程度なんですが、アマチュアの方の作品はストーリーが錯綜することが多く、『結局、この話はどの方向に進むんだ?』ということを確認したいときに梗概を見ます」
この件についてはいくつかの文学賞の主催者の方にも聞いてみましたが、やはり、「多数の応募作を読む中で、短時間で作品を把握するため」との答えが返ってきました。これが梗概添付の第一義のようです。
また、梗概には、これを書いてもらうことで別の使い道も生まれています。
一つは、「文章をまとめる力」があるかどうかの判断材料となること。
ある文学賞の担当の方は、
「梗概が書けているかどうかで、作品をまとめる力があるかどうかが分かる。審査の対象として見ている」と言っています。
逆に言えば、作品がまとまっていないから、梗概もまとまらないのかもしれません。
もう一つは、「ストーリーの良し悪し」の判断材料になること。
別の文学賞の担当の方は、
「あらすじを読むと物語の骨子がしっかりと見え、書いた本人も理解していなかった落ち度が発見できる」と言っています。
確かに長編の場合、要約することで見えてくる欠陥もあるかもしれません。
しかし、実際のところ、梗概の書き方が審査に影響するかと言えば、まず関係なく、「全くない」と言い切る担当の方もいました。「あらすじの付け忘れがあったりしたこともあります。でも、あくまで作品の質が重要」とのことです。
梗概をどう書けば?
概要は、どのように書くのが望ましいでしょうか。取材結果を総合すると、
「物語の主要登場人物や、結末までの流れを分かりやすくまとめてほしい」
「人に読ませるという意識をもって、作品の一部と考えて書いてもらえたら」
とのことでした。
また、概要でもっとも問題となるのが、結末まで書くかどうかですが、これについては、ほとんどの文学賞主催者が、「結末まで書いてほしい」と答えています。
一部、「ケースバイケースです。必ずしも結末まで書かなくてもよい」との答えもありましたが、大勢は「書いてほしい」でした。
ただ、あるミステリー文学賞の担当の方はこう言っています。
「たとえば紐を使うとか、細かい物理的なトリックまで書く必要はないが、トリックがあるということや大まかな流れ、それに関わる人物については書いてあるほうが良い」
梗概(あらすじ)は「大雑把なストーリー」という意味ですから、導入部から結末までを要約していないといけないということになります。
しかし、これを裏から読めば、「あらすじには筋が書いてあればよく、トリックの詳細まで書く必要はない」とも言えます。トリックが書かれていなくても、あらすじとしては成立しているのであれば、それはそれでOKでしょう。
ということで、十人十色の意見がありましたが、断定してしまえば、
「梗概は結末まで書くが、トリックの詳細まで書かなくてもよい」となります。
そう言うと、「結末まで書くのには抵抗がある」と反論する方もいるでしょう。
エンターテインメント性の強い小説ならなおのことですね。
でも、そんな心配は要りません。実際、私たちは結末を知っている作品を再読し、それで感動することもあります。
小説は「A地点からB地点まで行く」という結果だけを書くものではなく、その過程を書くものです。ですので、恐れることなく結末まで書いてください。
良い例
蜘蛛の糸
ある日のこと、お釈迦様は極楽の蓮池のふちをぶらぶら歩いていた。やがてお釈迦様は池のふちにたたずみ、蓮の葉の間から下の様子を見た。蓮池の下はちょうど地獄の底になっており、そこには犍陀多という男がいた。
犍陀多は、いろいろ悪事を働いた大泥棒だったが、一度だけ良いことをしたことがあった。あるとき、蜘蛛が一匹、這っていくのが見え、足を上げて踏み殺そうとしたが、「これも小さいながら命のあるものに違いない」と殺さずに助けてやったことがあったのだ。
そこでお釈迦様は、良いことをした報いに、できればこの男を救い出してやろうと考えた。
その頃、犍陀多は血の池にいた。
何気なく頭をあげ、血の池の空を眺めると、遠い天上から銀色の蜘蛛の糸がするすると自分の上に垂れてきた。
犍陀多は手を打って喜び、この糸にすがってのぼっていけば、きっと地獄からぬけ出せる、いや、うまくすると極楽に行くことさえできる。そう思って、蜘蛛の糸を両手でしっかりとつかみ、上へ上へとのぼり始めた。
一生懸命のぼった甲斐あって、血の池も針の山もはるかに遠ざかり、犍陀多は地獄から抜け出すのも存外わけないかもと思った。
ところが、ふと気がつくと、蜘蛛の糸の下の方には、無数の罪人たちが自分ののぼったあとをつけてきていた。
自分一人でさえ切れそうな蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪えるだろう。犍陀多はそう思い、大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は俺のものだぞ。お前たちは一体誰に聞いてのぼってきた。下りろ。下りろ」とわめいた。
その途端、蜘蛛の糸が急にぷつりと音を立てて断れ、犍陀多はみるみるうちに暗の底にまっさかさまに落ちてしまった。
お釈迦様はこの一部始終をじっと見ていたが、犍陀多が血の池の底に沈んでしまうと、悲しそうな顔でまたぶらぶら歩き始めた。
悪い例
ある日のこと、お釈迦様は極楽の蓮池のふちを歩いていた。➊池の中に咲いている蓮の花はみんなまっ白で、そのまん中にある金色のずいからは、何とも言えない良い匂いが溢れていた。
❷やがてお釈迦様は池のふちにたたずみ、蓮の葉の間から下の様子を見た。蓮池の下はちょうど地獄の底になっており、水晶のような水を透き通して、三途の河や針の山の景色が、ちょうど覗き眼鏡を見るように、はっきりと見えた。
するとその地獄の底に、犍陀多という男が一人、ほかの罪人と一緒にうごめいている姿が目に止まった。犍陀多は、人を殺したり家に火をつけたり、いろいろ悪事を働いた大泥棒だったが、それでもたった一つ良いことをしたことがあった。
あるとき、この男が深い林の中を通ると、小さい蜘蛛が一匹、這っていくのが見えた。犍陀多は早速足を挙げて、踏み殺そうとしたが、「いや、いや、これも小さいながら命のあるものに違いない。その命をみやみにとるのはかわいそうだ」と思い返して、蜘蛛を殺さずに助けてやったことがあったのだ。
そこでお釈迦様は、良いことをした報いに、できればこの男を救い出してやろうと考えた。
犍陀多は血の池にいた。何気なく血の池の空を眺めると、遠い天上から銀色の蜘蛛の糸がするすると自分の上に垂れてきた。犍陀多はこの糸を両手でしっかりとつかみ、上へ上へとのぼり始めた。一生懸命のぼった甲斐あって、犍陀多はあと一歩で地獄から抜け出せるところまで
❸来た。「助かった」犍陀多は安堵し、後ろを振り返った。
そこには無数の罪人たちが自分ののぼったあとをつけてきていた。自分一人でさえ切れそうな蜘蛛の糸が、どうしてあれだけの人数の重みに堪えるだろう。
❹犍陀多の運命やいかに。
❺我が身ばかりを考えた男の悲劇を描いた傑作掌編!
あらすじを書くポイント
右記のあらすじは、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を要約したものです。上段の〔良い例〕はごくごく一般的な例です。
下段の〔悪い例〕は、初心の方がやりがちな例です。では、どのへんが問題なのか、確認してみましょう。
❶の文は話の筋ではないですね。ここがなくても、あらすじは成立しますし、伏線でもありませんので削ります。
❷『蜘蛛の糸』の前半部分ばかりに字数を割いています。バランスが悪いです。
❸この箇所は実作品の記述と少し違います。実作品に書かれていないことを書いてはいけません。
❹あらすじが中途です。必ず結末まで書きましょう。
❺文庫本の裏表紙の宣伝文のようになっています。筋だけを書くこと。
※本記事は「公募ガイド2013年9月号」の記事を再掲載したものです。