エンタメ技法を盗め!小説に活かす映像のテクニック4:小説にしかできない表現とは?


文字ならではの表現
小説という手法を選んだ以上、小説でしかできない表現、小説ならではの表現をしたいものですが、では、小説ではどんなことができるでしょうか。
- 読者の想像に委ねられる。
- 心理が直接書ける。
- あとで「ない」と書ける。
映像の強みは、なんといっても現物を指し示せることで、画面にりんごが出てくれば、それを見る人の脳に寸分違わずりんごの絵が再生されます。
一方、「りんご」という文字情報は曖昧です。どんなりんごかわかりません。
これが文字(小説)の弱みですが、同時に強みでもあります。
映像の場合、人物に衣装を着せたり、背景などもちゃんと描かないといけませんが、小説の場合は細々としたディテールまで書かなくても、ある程度のことは想像してもらえます。場合によると、映像で示す以上の情景をイメージしてもらえることもあります。読者が勝手にイメージを広げるのです。だから小説では、服装がどうとかはあまり詳しく書く必要がないのです。これは活字メディアの最大の強みでしょう。
もう一つは、告白体など主人公の内面を書くこともできること。もちろん、映像でも内面を吐露したものはありますが、「好き」というセリフは言えても、「好き」という心は映せません。
実物のカメラには形のないものは映りませんが、小説のカメラには人物の心が映ります(ただし、視点人物の内面に限ります)。こうしたことが書けるのも小説ならではです。
最後は、一度書いたことをあとでないと否定することができること。
長い診察が終わった。
医者の言葉がとぎれるや否や、僕はカバンを床に落とし、ふらふらとした足取りで病室を出た。医者が呼び止める声も聞かず、僕は「アアアアー!!!」と絶叫しながら病室を飛び出し、通りすがりの人とぶつかり、倒れ、転げながらも立ち上がり、手足を情けなくバタつかせながら走って、走って、そして橋のたもとまでやってきて、もう動けなくなり、そして這いつくばりながら嗚咽した……
というのは嘘。( 川村元気『世界から猫が消えたなら』)
「というのは嘘」ですから、これは映像にできません。やるなら「というのは嘘」と言わせるしかありません。つまり、言葉でしか表現できないということです。
『美しい心臓』の著者小手鞠るいさんにお聞きしました
小説は映像の枠に収まらない
――小手鞠さんの文体には非常に心地良いリズムを感じます。
読点と改行には、神経質なまでにこだわっていますので、もしかしたらリズム感は、そこから生まれているのかもしれないですね。
――小手鞠さんが、身を削るようにして恋愛小説をお書きになる動因は?
恋愛をしているときの人間のありよう、むき出しになっている感情、相手に対して悪魔にもなれるし、天使にもなれる、善も悪も孕んでいる、そういう心の振幅や理不尽なエネルギーみたいなものに興味があります。ものすごく興味があるので、少しでもそれに近づいていきたくて、想像力をふりしぼって書いているという感じです。『欲しいのは、あなただけ』が私の原点で、今でも、創作の原動力はこの作品にある、と思っています。
――事前にプロットは作りますか。
大まかなストーリーや構成などについては、事前に考えて、ざっくばらんにノートに書き出しておきます。そして前の晩、次の日に書きたい部分について、細かいところまで、アイディアをメモしておきます。家事やランニングなどをしていて、ぱっと浮かんだことや台詞なんかも、こまめに書き留めておきます。でも、いったん作品を書き始めると、事前に思い描いていた内容とは変わってしまうことが多いです。その変化を、まるごと受け止めるようにしています。プロットは立てるけれど、縛られないように。
――「白紙の手紙」は、露見したくないけど気づいてほしいという気持ちの象徴と思いますが、この着想はどこから?
無言電話に代わる何かがないかな、と、ずっと考えていました。あとは、私が主人公だったらどうするだろう? と(笑)。
手紙という形式、便箋を封筒に入れて送るという行為が私は好きなので、そこから思いつきました。要は、私の趣味ということだと思います(笑)。小説のなかでは、ある種の恐怖を醸し出しているかもしれませんが、私は、白紙の手紙というのは「美しい祈りの行為」ではないかと思っています。
――映像化できない、小説ならではの表現とはどのようなものだと思われますか。
たとえば映像のなかで、ある人物が「白い手紙」を受け取ったとします。映像のなかでは視覚的な「白い手紙」でしかありません。しかし小説のなかでは、「白い手紙」という言葉ひとつをとっても、そこにはまず、書き手の体験と想像がこめられていますし、受け取る読者の側にも、それぞれの体験と想像が存在します。
つまり、その人にとっての「白い手紙」が、人の数だけ存在しているわけです。たったひとつの言葉でさえそうなのですから、言葉の集合体である小説には、無限の映
像が存在している、と言えるのではないでしょうか。映像は小説になり得るけれど、小説は映像にはできない、小説は映像という枠には収まりきらないのではないか。私はそう思っています。
――『美しい心臓』は、どんな方に読んでほしいですか。
恋愛の真実、人の心の善なる領域、「生」の純粋さと美しさに興味のある方々に読んでいただきたいです。紙の上に印刷された「恋愛を読む」という体験を、その時間を、ジャズを聴いているかのように、一生に一度きりの恋をしているかのように、楽しんでいただけたらうれしいです。
本を閉じた瞬間、現実にもどって「ああ、現実はいいな。幸せだな」と思っていただけたら、なおうれしいです。
※本記事は「公募ガイド2013年10月号」の記事を再掲載したものです。