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私の作家修業時代1:プロ作家への道と、正しい作家修業時代

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公募文学賞が近道

プロ作家になるには、大手出版社が実施している公募文学賞に応募し、受賞するのが近道です。
この道を開拓したのは、昭和30年に第1回文學界新人賞を実施した文藝春秋と、その受賞者である石原慎太郎でしょう。
これ以前にも新人文学賞や懸賞小説はありましたが、作家としてデビューする方法の主流とは言えませんでした。
さて、受賞者は世間の注目も浴び、受賞作にも「○○賞受賞」と書かれて華々しくデビューします。このようにしてデビューした作家を挙げればきりがありませんが、大手出版社が開催する公募文学賞は一般文芸だけで40件近くありますから、単純に言えば作家は受賞者だけで1年に40人近くデビューしているわけです。
さらに、誉田哲也さん(ホラーサスペンス大賞特別賞)や鈴木光司さん(日本ファンタジーノベル大賞優秀賞)のように、大賞は逃したものの、優秀賞や特別賞を受賞してデビューする人もいます。
また、入選はしなかったものの、応募作が編集者の目に止まり、その後にデビューする人もいます。
たとえば、貫井徳郎さん、小川糸さん、火坂雅志さんがそうですが、こうした例を含めれば、公募文学賞を通じて、年間に100人近くの作家がデビューしていると思われます。

公募以外の道は?

公募文学賞が主流になる以前は、プロになる道は、文芸誌の編集部に持ち込み(売り込み)をすることでした。
比較的最近、この方法でデビューした作家には、今はなき「海燕」編集部に『優しいサヨクのための嬉遊曲』を持ち込んだ島田雅彦がいます。
これは昭和58年のことですが、戦前はともかく、この頃には、「海燕新人文学賞のほうにご応募ください」と言われるのが普通でしたから、島田氏の場合はかなりレアケースでしょう。
今現在、持ち込みが可能だとしたら、公募文学賞を持っていない出版社に限ります。ただし、直接出向いて売り込む気合いがあればですが。
公募文学賞を経ずにデビューする道があるとしたら、編集部のほうでたまたま見出したり、つてがあったりして、原稿を見てもらえたり、依頼がきたりというケースでしょう。
こうしたことは今もありますが、どうせなら「○○賞受賞」の冠が欲しいということもあり、いったん公募文学賞に応募してもらうケースもあるようです。

作家に不可欠なもの

プロ作家になるのに必要なものは、文章力、着眼点、構想力――つまり、うまさや巧みさと思いがちです。確かに、それらも必要ですが、それだけでは作家にはなれません。少なくともプロ作家(職業作家)にはなれません。
職業として成り立つためには、市場に求められる必要があり、うまいけれど、作家○○の二番煎じ、プチ○○というのでは、存在価値がありません。読みたければ、本家の作家○○のほうを読めばいいのですから。
今回、登場いただいた四人の大御所作家の方々にしても、「作家○○と言えば△△」とか、「○○の△△」というものを持っています。
阿刀田高先生はブラック・ユーモア、プロ作家への道と、公募文学賞が近道赤川次郎先生はユーモア・ミステリー、北村薫先生は日常の謎、清水義範先生はパスティーシュです。
こうした今では大御所の作家の方でも、もしかしたら、「○○の△△」というものがなければ、埋もれていたかもしれません。いや、そうでしょう。
考えてみたら、世に出て、そして今も生き残っている作家を見ると、そのジャンルのパイオニアであったり、第一人者であったりします。
たとえば、時代小説の池波正太郎、山岳小説の新田次郎、動物文学の戸川幸夫、経済小説の城山三郎、ショート・ショートの星新一などなど。
ジャンルのパイオニアでなくても、その作家自体が一つのジャンルというくらいの存在感がないと、次から次へと新人作家が出てくる商業出版の世界を生きていくのはつらいと言えます。

正しい修業時代

作家になるために、やっておかなければならないことを四つ挙げましょう。
まずは、読書経験です。「作家は読者の中から生まれる」と言いますが、好きなジャンルがあったり、好きな作家がいたりして、脇目も振らずに読む。作家になりたいとか、作家修業とかではなく、とにかく夢中になって小説を読んだ時期があり、読みすぎて読むことに倦み、自分のほうがもっと面白いものが書けるとなったとき、その人は自然に作家になる。
そうした乱読時代を持たずに作家になる人はまずいませんし、なれたとしても、長続きはしないはずです。
次に書くこと。
構想があっても書く気があっても、書く技術や力がなければ、当然ですが、作家にはなれません。
では、書く技術や力はどうしたら身につくのかと言えば、それは書く以外にありません。
試しに、週に一編、掌編でもいいので書くことを義務づけてみましょう。その1作目と1年後の50作目を比べると、文章力、表現力、構成力とも磨きがかかり、格段にうまくなっているはずです。
また、枚数をこなせばこなすほど書く体力がつきますから、1年前はちょっと長いものを書くと息切れし、後半になると一行空きの断章を設けて場面をどんどん飛ばし、描写も雑になってぐだぐだになっていたような人も、ある程度、気持ちも途切れずに書けるようになっているはずです。

作家修業は人生修業

三つ目は、人生経験。
もちろん、経験をすればいいというわけではありませんが、特にエンターテインメント系の小説では、経験がないと書きにくいということはあります。
会社で店長会議がある。そこで散々しぼられ体調を崩して帰宅したものの、娘は帰宅に気づいてくれず、嫁もケータイをチェックしながら「帰ってたの?」と冷たく言い放つ――。
というシーンも高校生にだって書けないとは言いませんが、実感を持って書くのも、ディティールを書くのも難しいでしょう。想像力を駆使すれば書けなくもないと思いますが、ちょっと的外れだったりもします。
エンターテインメント小説では、様々な性格の人間、様々な職種の人間、それぞれの経験を経た人間を書き分けなければいけませんから、ある程度の人生経験とある程度の小説経験は絶対的に必要になります。
最後は、得意分野を持つこと。
前述したように、「○○の△△」というような得意分野、専門分野、あるいは、突き抜けた何かがないと、生き残っていくのは難しい。
それを見つけるのはそう簡単なものではなく、見つけられても、得意分野、専門分野と言えるようになるためには、それなりの年月が必要になります。
たとえば、料理が好きなら料理小説は書けると思いますが、料理小説の第一人者になるのなら、料理研究家と言っていいぐらいの知識と見識と技術が必要でしょう。そうなるためには五年や十年の時間は必要で、しかも、小説のために研究するのではなく、純粋にその道を究めようという気持ちが必要です。
そう考えると、作家修業というのは人生修業と同義語かもしれません。

私に才能はあるか

新人文学賞に応募して、すぐに受賞、または何回かの応募で受賞する人もいれば、苦節何年というぐらい芽が出ず、一次選考も通らない時期を長く続けた果てにデビューする人もいます。
全くタイプが異なるように見えますが、この両者に大きな違いはありません。
たとえば、石田衣良さんは、最初に公募ガイドを見て応募したほとんどの賞で最終選考まで残ったそうですが、このときに初めて作家になろうと思ったわけではなく、子どもの頃から作家志望で、いつかはなろうと思っていたそうです。
逆に石田衣良さんのような才能ある方でも、在学中に新人文学賞に応募し始めたら、何年かは予選落ちを経験したかもしれません。受賞できたとしても、デビューが早すぎ、その後は苦労や勉強を強いられたかもしれません。
つまり、作家修業をしながらずっと機が熟すのを待つか、それとも、落選を繰り返しながら作家修業をするか、ということになります。どちらがいいとは言えませんが、いずれの場合も「本当になれるのか」と不安でしょう。しかし、それは考えないようにしましょう。
よく、「私に才能はありますか」と聞く方がいます。「ある」と言われれば頑張るし、「ない」と言われれば諦めると言うのですが、そういうものではないですね。チャレンジは、「ある」と仮定するところから始まるものです。
哲学者の三木清は言っています。
「生きていることは、ただ生きているということを証明するためではないであろう。(中略)実に、一つの仮説を証明するためである。だから、人生は実験であると考えられる」(『人生論ノート』)
そういう過剰な思い込みが必要です。

 

※本記事は「公募ガイド2014年1月号」の記事を再掲載したものです。