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作家修業の場を持つ2:長谷川伸と新鷹会/徒弟制度の現状

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長谷川伸と新鷹会(「新鷹会」伊東昌輝さんにお聞きしました)

長谷川伸の横顔と人柄

『瞼の母』などの小説や戯曲で知られ、股旅物の創始者、長谷川伸は明治17年、横浜の土木業の家に生まれますが、3歳のときに両親が離婚、母と生き別れ(これが『瞼の母』の題材になるのですが)、その後、実家が没落し、長谷川は小学校3年生にして自活生活を強いられます。
まだ年端のいかない子どもゆえ、できる仕事は使い走りや人足のたぐいでしたが、落ちている新聞を読んで漢字を覚えるなどして小さな新聞に演劇評を投稿。
それが縁でその新聞社に入社。その後、陸軍に入隊除隊後、横浜毎朝新報社、都新聞(現東京新聞)の記者を経て、大正の初めから小説を書き始め、大正11年からは菊池寛の助言で、長谷川伸のペンネームを使うようになります。
このように非常に苦労の多い人生だったせいか長谷川伸は面倒見がよく、それもあって長谷川を頼って、あるいは慕って、多くの作家志望者、文学者が長谷川の下に集まるようになります。

遺志を継ぎ、70余年存続

昭和15年、長谷川伸を中心に、村上元三、山岡荘八らによって勉強会が催されるようになり、それが毎月15日に開催されていたことから「十五日会」と言われていましたが、これはのちに「新鷹会」と改称され現在に至ります。
新鷹会は、長谷川伸が自費で発行していた同人誌「大衆文芸」を発行しますが、往時の「大衆文芸」はそこに掲載された作品がそのまま直木賞の候補になるような雑誌ですから、いわゆる同人誌とは規模が違います。
さて、この勉強会について、長谷川伸の愛弟子にして、「大衆文芸」の現編集人、そして直木賞作家・平岩弓枝さんのご主人でもある伊東昌輝さんにお話をお伺いしました。
「勉強会では、作品を持ってきた人は自分で朗読しますが、聞いている人は長谷川先生を始め、村上元三、山岡荘八、山手樹一郎など錚々たるメンバーだから気押されまして、本当に汗をかくんですよね。で、批評されると(ショックで)その晩は寝られないんでね、たいがいどこかで飲んでましたよ。でもね、長谷川先生はいいところは言ってくれましたし、いいところがなくても、こうすればよくなるよと必ず言われましたから」
こうした長谷川流の評し方を踏襲し、現在でもこてんぱんに叩きのめすのではなく、その人の作品がよくなるようにアドバイスし、厳しいことを言っても、がっかりしないで書き直しなさいと言うようにしているそうです。
昭和38年、長谷川伸は亡くなりますが、新鷹会は存続し、昨年は山口恵以子さんが『月下上海』で松本清張賞を受賞。現在も会は活動中です。

新鷹会が出した直木賞作家

昭和15 年上期 河内仙介『軍事郵便』
昭和15 年下期 村上元三『上総風土記』
昭和17 年下期 田岡典夫『強情いちご』
昭和17 年下期 神崎武郎『寛容』
昭和24 年下期 山田克郎『海の廃園』
昭和29 年下期 戸川幸夫『高安犬物語』
昭和30 年下期 邱永漢『香港』/新田次郎『強力伝』
昭和31 年下期 穂積驚『勝烏』
昭和34 年上期 平岩弓枝『鏨師』
昭和35 年上期 池波正太郎『錯乱』

 

伊東昌輝(いとう・まさてる) 

作家、評論家。1931 年東京生まれ。慶應大学独文科に学び、長谷川伸に師事。新鷹会で平岩弓枝と知り合い、結婚する。「大衆文芸」編集人。

 

財団法人新鷹会 

新鷹会の長谷川伸の会の会員になると、「大衆文芸」の年間購読権が得られ、投稿ができる。また代々木八幡神社で行われる勉強会に聴講生として参加することが
でき、作品、出席率の良否によっては新鷹会の準会員として推薦され、また一定の基準に達すれば更に正会員の資格を得ることもできる。

 

徒弟制度の現状(西谷史先生にお聞きしました)

徒弟制度がなくなった理由

作家になりたければ、かつては誰かの弟子になるのが当たり前でしたが、それが崩れたきっかけは、昭和30年、石原慎太郎が『太陽の季節』で文學界新人賞を受賞、翌年の芥川賞も受賞したことではないかと思われます。
石原慎太郎は第34回の受賞者ですが、その前の第33回は誰かというと、『白い人』を書いた遠藤周作です。作家としての知名度は石原慎太郎と同等、またはそれ以上と言っていいと思いますが、マスコミの扱われ方が違います。
石原慎太郎がデビューする以前は、芥川賞、直木賞は文壇内の出来事に過ぎず、マスコミが大きく扱うことはありません
でしたが、石原慎太郎の場合、一橋大学に在学中の学生、それまでにない小説、さらに弟の裕次郎主演による映画化、慎太郎刈り、太陽族と話題を集めました。
それはいいとして、このことで世間が思ったことは、誰かに弟子入りせずとも、新人文学賞を受賞すればプロになれるじゃないかということだったでしょう。
つまり、時代は門から個へと移り変わっていったわけですが、師を持たなくてもプロになれるという道筋は、戦後の個人主義という風潮と公募文学賞の流行もあって、一般に浸透していきました。
とはいえ、昭和40年~50年代ぐらいまではまだ新人賞の数も少なく、作家修業として師匠に弟子入りする作家志望者も少なくなかったようです。
しかし、平成になるあたりから公募文学賞の創設ラッシュになります。と同時に、この時期、カルチャースクールが流行します。
小説家の徒弟制度の目的は、「師匠に窓口をつけてもらうこと」と「書く技術を教わること」と言えますが、カルチャースクールの小説講座で技術が学べ、公募文学賞受賞で出版社と結びつくことができるのなら、師匠を持つ必要性は薄いわけで、そんなことから徒弟制度は徐々に消滅していきました。

師弟関係は隠すのが普通

実際、有名作家であっても、弟子をとっているという現代作家は、一般文芸に関してはほとんどいません。
いるとしたらライトノベル作家に多いようですが、それはライトノベルはゲームとアニメーションという二次利用があるからで、これは集団創作の面があるからでしょう。
ただし、昨今は弟子ということではなく、プロダクションという形で従業員にしていることが多いようです。
もう一つ、弟子になるケースがあるのは、作家が大学や専門学校で教えていて、その卒業生がそのまま弟子として残る場合です。今回、お話をお伺いした西谷史先生の場合も、
「専門学校の教え子で、『もしかしたらプロになれそうだけど、二年や三年ではプロになれない』という人を継続して見ているパターンが一番多い」
とのことです。
こうした教え子に、有償でアドバイスを行う場合はやはり生徒と言うべきで、弟子の場合は無償で教えることが多いようですが、その場合、師匠にはどんなメリットがあるでしょうか。
西谷先生によると、ライトノベルの場合は、言葉づかいや流行などを含め、若い子のことを知らないと書けないそうで、その意味では若い弟子をとるメリットはあるとのことです。
そうなると、専門学校の創作クラスの数からいって、ライトノベル作家の師弟関係というのはもっとあって然るべきだと思いますが、あまり耳にしません。
「どんな作家にもアンチがいて、売れていてもあの作家とは仕事をしたくないという編集者もいます。弟子であることを公言することで師匠の人間関係を引きずるのはマイナスです」
それゆえ、今は師弟関係にあることは隠すのが普通なのだそうです。

 

西谷史(にしたに・あや) 

「2020 年ホログラフ元年」などの短編小説を発表したあと、1986 年、「女神転生」で最初期のライトノベル作家に。東放学園映画専門学校、日本マンガ芸術学院では小説の書き方を教えている。『神々の血脈』『タイムダイブ1986』『黄金の剣は夢を見る』『東京SHADOW』『西谷史先生のライトノベルの書き方の教科書』など著書多数。

 

※本記事は「公募ガイド2014年7月号」の記事を再掲載したものです。