第32回「小説でもどうぞ」佳作 母と娘の正しい生き方 坂本雨季
第32回結果発表
課 題
選択
※応募数306編
母と娘の正しい生き方
坂本雨季
坂本雨季
スーパーで買ってきた総菜を調理台に並べる。
白菜、うどん、鶏肉。ほうれん草と大根は野菜室に残っているし、ポン酢もたしかまだあったはず。冷蔵庫をあけると扉の内側の、マヨネーズの横にポン酢の瓶が並んでいる。底から三センチほど残っているから、なんとか足りるだろう。支度をして鍋を火にかけた。
「お鍋だけど、いいよね?」
奥の部屋に声をかけるが返事はない。仕切りのガラス戸越しに見ると、細く開けた窓から外を眺めている。こんな奥まった路地を通る人なんて、いないだろうに、もの好きな。
「たまにはだれか通ったりするの?」
エプロンの紐を結びながら母の横へ行き、わたしも路地を見下ろしてみた。茶色い枯れ葉が、アスファルト舗装をかさこそと舞っている。
「寒いから閉めるよ」
答えない。わたしの方を見もしない。勝手に窓を閉めたからむくれているのだ。ずり落ちそうになっていた、ひざ掛けを引っ張り上げてやる。
「スーパーの横にATMあるじゃん。あそこで来月分の年金おろしてきたよ」
台所へ取って返し、白菜のとなりに置いた布袋から、封筒を出して戻ってくる。
「はい、これ」
膝にそろえた母の手に、銀行の封筒をにぎらせた。
派遣の仕事の、契約終了時期とコロナの流行が重なって、わたしは次の仕事をもらえなかった。その後も、どんどん酷くなるコロナに左右され、四十代も後半で、手に職のないわたしが働く場所は見つからなかった。
母は国民年金で月に七万円弱だけれど。亡くなった父の遺族年金が追加されるから、まあそこそこの金額になる。年間にして百万円とすこし。十年前に出戻ったわたしが、派遣で働いてこそ、母子二人の暮らしはなんとかなっていたが、正直いまはかなり厳しい。このままじゃいずれ、家賃も払えなくなる。なんとか仕事を探さなければいけない。
鍋が煮えたので、台所のテーブルまで車椅子を押してくる。母は三年前に、アパートの階段を踏み外して転落し、歩けなくなってしまっていた。たまたま空き室だった一階へ移してもらい、車椅子で移動できるよう大家さんに交渉し、六畳の和室を板の間に変えた。あのリフォームのとき、離婚のときに受け取ったわずかな慰謝料を使い切ってしまった。
「熱いからね、気をつけて食べて」
小鉢に、母の分の野菜やうどんを取り分けてやる。
「うどんが入ってるから、今日はご飯は炊いてないからね」
今夜は寒いから、久しぶりにお風呂を入れよう。わたしだけだから、浴槽に三分の一くらいまでお湯を張ればいい。酒屋でもらった焼酎の空ペットボトルを六本、ビニール紐で結わえてある。それに水を入れて沈めて、ぺたんこに座れば胸の下くらいまでは浸かれる。両手をついて前かがみになれば、肩までだっていける。よく温まったら急いで洗ってすぐ出ればいい。その勢いで布団に入って寝てしまう。よし、そうしよう。
チャイムが鳴った。誰よいったい、こんな時間に非常識このうえないわ。
「民生委員の山崎です、いらっしゃるわね、高野さん、高野さん!」
またあの人だ。いままでは昼間しか来なかったのに。居留守をつかっていたから、電気がつく夜になってから来たのね、嫌なやつ。性格悪いったらありゃあしない。
「高野さん、今日はお顔を見るまで帰りませんよ。市役所の方も一緒ですからね」
「開けてくださいませんか、一度お母さんとお話しさせてください!」
男の人の声だ。市役所の人が一緒って本当なのか。知らぬ顔をしていると、今度はドアを叩きだした。こんな時間に近所迷惑じゃないの。
「分かりましたから。いま開けますから、そんな大声で騒がないでくださいよ」
仕方なく錠をまわしてドアを開ける。腰に手をあてて、玄関前に立つ二人を睨みつけてやった。小柄なわたしだけれど、これで少しは凄みが出ただろうか。
「まったく、近所迷惑ですよ。大声で怒鳴ったりドアを叩いたり」
「あ、高野さん。芳江さん、ご無沙汰してます、山崎です。お邪魔しますね」
引き止める間もなく、山崎は図々しく上がり込んで車椅子の横に立った。
「良かった、芳江さん。お食事できるほどお元気なら……」
母の顔を覗き込んだ山崎は、先ほどの声など比べ物にならないほど盛大な悲鳴を上げた。
市役所の男は驚いて、慌てて上がってきて母の顔を覗き込み、ひゅっと息をのんだ。それから大慌てで携帯を操作し、市役所の男は早口で言った。
「人が死んでます! はい、はい、ええ。いえそれがもう、白骨っていうんですか、そういった感じになってまして! ええと住所は……」
食事中だっていうのにまったく、常識のない人ばかりで困ったものね。
「ほら母さんも、さっさと食べちゃって。なんだか知らないけど、誰か来るみたい」
わたしは座りなおして、箸をとった。
(了)