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第33回「小説でもどうぞ」選外佳作 ワンピース 河音直歩

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第33回結果発表
課 題

不適切

※応募数275編
選外佳作 

ワンピース 
河音直歩

 校庭の銀杏いちょうが黄色い落ち葉を降らしはじめた頃に、田辺先生は学校に来なくなった。
 先生は国語担当の男性教師だった。有名大学出身で、高校進学用の補講を担当していて、休み時間に職員室にいるときも、たいてい彼のそばには、ノートや参考書を抱えた生徒が座っているのだった。先生は、難しい質問にも今さら訊くのが恥ずかしい初歩的な質問にも、誠実に答えるし、わからないことには、わからないから調べておくよ、と言う人だった。
 ほかの生徒と同じように、真弓も先生に好感を抱いていた。
 まず、見た目が清潔そうなのがよかったし、他の年配の教師とは違って偉ぶっていないから、話もしやすかった。背が高くて足が長くて、笑うとえくぼができる顔もかっこいいと思っていた。ふとした会話がきっかけで中学校や市の図書館にない本を貸してもらえることになって、いままで五冊ほど借りて、返してきた。一度だけ、お礼にクッキーを添えたこともあった。
 最後に借りた文庫本は、もう読み終わっており、いつでも返せるようにと、通学鞄に入れたままになっている。先生が学校に来なくなったことがまだ信じられなくて、本を取り出すということが、なんとなくできない。
「田辺洋一教諭は――」
 先月の全校集会で校長先生が、何度も咳払いをしてからそう言ったとき、生徒の間にぴりぴり痛むような沈黙が落ちたのを、真弓はすぐ思い出すことができる。
「校内での不適切な行為、言動、および関係が認められたため、厳正なる処分をすることに決まりました。詳しいことは各担任から追って――」
 騒然となった生徒たちの漏らした声。驚愕する視線の交差。先生が静かに、と注意する声。鼻を啜る音。機関銃のような囁きの嵐。
 そのときから校内は、ずっと田辺先生の噂話で持ち切りだ。落ち葉はもう、だいぶ増えた。校庭の隅だけでなく、街路を埋め尽くしている。裸んぼうで寒そうな樹が、街のいたるところに立ち尽くしている。
「だめだ。不適切、の正体がわからん」
 友人が、机に突っ伏してため息をつく。真弓は窓からぼうっと校庭を眺めている。
「バレー部の先輩たちも、新しい噂とか、なにも聞いてないって?」
「不適切って説明してるけどそれは真っ赤な嘘で、実は難病にかかってたとか、外国にいる恋人のせいで犯罪に巻き込まれたとか……いままで聞いてきたのと大差ないよ。山口先生、口割ってくれないかな」
 山口は新任の女性教師で、ふだんは口が軽いが、田辺先生の件になると黙ってしまう。きびしい箝口令かんこうれいが敷かれているのだ。
「不適切って言い方、ずるいよね。結局、なにも説明してないじゃない。そのくせ、いやな後味だけ残してさ。だから大人っていやだ」
 そう言いながら真弓は、何度目になるかわからないが、スマホで再び、不適切、の意味を調べ、画面をのぞき込む。
「状況や事柄にたいする配慮を欠いている、ってなんだろう。誰に対する配慮なんだろう。ほかの先生? それとも」
「まさか生徒に手を出したとか? 田辺先生に限って、そんなことするわけないし」
 ふと、真弓の頭に、ある考えが稲妻のように走った。私に何度も本を貸していたことがばれて、悪い関係を疑われたのではないか。まさか。いや、でも、ありえなくはない。断片的な事実だけで変な決めつけをする大人――ということでいえば、すぐ数人の意地悪な先生の顔が浮かんでくる。田辺先生は生徒に人気だから、嫉妬されていてもおかしくはない。
 その日の夕方、真弓は隣街へ出かけた。以前借りた本に年賀状が挟まっていて、葉書きに記されていた先生の住所をよく覚えていたのだ。
 先生の家に続く道は、昨晩の雨で濡れた落ち葉が地面にへばりついていた。惨めに汚れているのが、どこか物悲しかった。真弓は、先生に事の真相を訊ねて、場合によっては自分のせいで苦しい立場にたたせてしまったことを謝らなければならないと考えていた。
 着いたのは、思ったよりもだいぶ古いマンションだった。エントランスの蛍光灯はちかちかと消えかかっており、掲示物は破れ、郵便受けのいくつかには落書きがされていた。
 呼吸を整えて、インターフォンを押す。ぽーんぽーんと、チャイムの音がオートロックのパネルにうすく反響する。だれも出ない。もう一度押す。やはり誰も出ない。
 マンションの外に出て、建物を見上げる。四階のベランダの位置は確かめることができたが、どれが先生の住む四〇二なのかは、わからない。
 しかしこちらに向いたその一つのベランダに、風にひるがえりながら揺れる、一枚のワンピースが見えた。紫と黄色がアクセントの小花柄で、長袖の肩にはリボンの装飾がついて、着丈が短い。腰にポケットがあるのを真弓は知っている。
「どうして。私のワンピースが」
 どん、と心臓を叩かれたような気がした。さっと自分の肩を抱くと、彼女は息をするのも忘れて走った。一度も振り返らずに建物を離れた。
 駅前で立ち止まると、自分の汗のにおいがした。そのにおいにも、どうしてか、真弓はどきりとしてしまう。怖いような感じがする。
 熱くなっている瞼を閉じると、風にふわふわとあおられているワンピースの姿が、鮮明に蘇ってくる。それは、不適切、という得体の知れない言葉が、くすくす笑っているかのように、真弓には思われるのだった。
(了)