第36回「小説でもどうぞ」佳作 動物の絵 ササキカズト
第36回結果発表
課 題
アート
※応募数263編
動物の絵
ササキカズト
ササキカズト
一人の若い男が絵を描いていた。男は絵を描くことを
男の頭の中には、動物の造形というものがインプットされている。日々野生の動物を観察し、筋肉や骨格、体のバランスというものを頭に叩き込んでいた。だから男は、何も見ることなく、動物の絵を描くことができていた。
男は今、馬の絵を描いている。線を走らせると、それが馬というものの形として浮かび上がってくる。無から有を生み出す。そんな快感を、男は、絵を描くことによって得ていた。
男には助手がいた。若い女だった。女は男の描く絵に心酔していた。男の持つ表現力、その技術というものを、心から尊敬していた。女は自分でも描くことができないだろうかと何度も試みたが、己には才能がないことを知り諦めた。自分で描けなければ、せめて描くところを見ていたい。女はいつしか男の助手を務めるようになっていた。
この女が、男の描く絵を賞賛するその内容は、実に的確であった。画家というものが、絵の中に生き物を表現できる素晴らしさ、描かれる線や形、造形というものが持つ魅力をわかっていた。男は、自分の絵を見るほかの誰よりも、この女が一番理解してくれていると感じていた。いつしか彼女の理解こそが、絵を描く喜びの大きな部分を占めるようになっていた。
言葉ではなく、絵によって表現する者と、それを深い共感を持って理解する者。二人の間には、表現活動における根源的な何かが成立していた。
そして女のその尊敬の念は、男に対する好意にもつながっていた。憧れと尊敬の眼差しで、男が絵を描く姿をいつも見つめていた。男もまた、そんな彼女に対して好意を持っていた。
一頭の馬の絵が完成した。
「どう?」
男は、助手である女に尋ねた。
女は言葉を失い、奇跡か何かを見るような目でその絵を見ていた。瞳を輝かせて、涙さえ浮かべていた。そんなふうに自分の絵を見てくれるこの女に対し、単なる好意といったものを越えて、苦しいほどの愛おしさを感じていることに男は気づいた。絵の理解者としてではなく、一人の女として愛し始めている自分に気づいたのだ。
女は何かを言おうとして、男のほうを見た。男がずっと自分のことを見つめていたとわかったとき、この絵がどのように素晴らしいかを伝えようとしていたことなど頭の中から消えてしまった。女は、男の顔を見ることができなくなり横を向いた。そして自分が赤面していることに気づき、両の手で顔を覆いうつむいた。そんな彼女の仕草に、男はたまらない愛おしさを感じ、抱きしめたいという欲求に駆られた。
そのときだった。
外から誰かの遠い悲鳴が聞こえた。女や子どもの悲鳴だ。
敵だ。敵が攻めてきたのだと、男にはすぐわかった。
男は女を物陰に導き、「ここでじっとしているんだ」と言った。
「待って」と女は言って、行こうとする男の腕をつかんだ。そして自分のほうへ引き寄せると、男を強く抱きしめ、「気をつけて」と耳元で言った。
男も女を強く抱いた。このままでいたい。彼女をずっと抱きしめていたい。男はほんの一瞬だけ行くことをためらい、全身で彼女を感じた。それはあまりにも短く、だからこそ永遠にも感じられた。
男は武器を手に取り、外へ出ていった。
しばらくの間、悲鳴や怒号が聞こえていたが、やがて静かになった。女が外に出てみると、敵も味方も多くの人々が亡くなっていた。何人かの男は、武器を持ったまま疲れきって座っていた。妻や子どもたちと抱き合っている男もいた。仲間の被害も多かったが、どうやら敵を退けたようだった。
女は男を探した。一本の木の下に横たわっている男を見つけた。傍らで、小さな子どもとその母親らしき女がうつむいていた。男はこの母子を守って戦ったのだという。敵を倒したが自らも負傷し、たった今、息を引き取ったところだった。
男が横たわる右側の地面に、男が指で描いた馬の絵があった。土の上に、震える線で描かれた未完の馬。右手の指が絵の最後の線の上に乗ったままであったので、絶命するまで描いていたとわかる。
男が最後の力で地面に描いた馬の絵。女のことを思いながら描いたのであろう。女もそう感じ取っていた。女が男の右手を抱きしめると、土で汚れた男の手に、何粒もの涙の雫が落ちた。
女の住む村の人々は、敵から逃れるためこの地を捨て、もっと山の奥のほうへと移動することとなった。男が描いたたくさんの絵は、そこに残していくしかなかった。女はこの地を去るとき、男が描いた絵を目に焼き付けた。この素晴らしい絵を描く男がもういないこと、自分が愛する男がいないというさびしさと悔しさに、あふれ出る涙を止めることができなかった。
いつしか忘れ去られた男の絵は、時を経て人々に発見されることになる。フランス南西部に位置するモンティニャックの町。ラスコーの丘のふもとの洞窟で、男の絵が日の目を見るのは、二万年も後のことであった。
(了)