第36回「小説でもどうぞ」佳作 せっかちな芸術家 藍染迅
第36回結果発表
課 題
アート
※応募数263編
せっかちな芸術家
藍染迅
藍染迅
わたしは山奥の川原に来ていた。
「これは誰が積んだものかな?」
川原に小石を積んだ塔が立ち並んでいる。
「そういうアートもわからないではない。自然を背景とし、鑑賞者が作品の中に入り込むことができるわけだ」
季節が変われば、四季折々の風景が作品を彩るであろう。
春は色とりどりの花。夏には緑の葉、明るい陽射し。秋になれば紅葉が木々を彩り、冬は枯葉と雪が世界を覆う。
時の移り変わりをアートの一部として、鑑賞させるということか。
ふと、風が吹いた。
木々の葉を震わせた風は、無情にも小石の塔を押し崩した。ひとつの塔が崩れれば、誘われたように他の塔も倒れていく。
「ああ。これもまた諸行無常を表すアートの一部か」
自然の摂理は無常であり、無情だ。そこにはかなさの美を見るのは、鑑賞する者の主観であろう。
日本という国の文化は、刹那性やはかなさに「物の哀れ」を見出す美意識を発展させた。
「そうはいっても芸術家たる者、悠久の時間をも作品を測る尺度のひとつとしたいものだ」
自然を借景とする思想には、時の移り変わりを通して悠久の時間を作品に取り込もうとする姿勢が含まれている。
アートとは時を超越することができるのだ。
しかし、芸術家を称する人間にもせっかちな者がいる。
わたしの知る範囲で言えば、陶芸家にそういう例が多い。焼き上がった作品が意に沿わないものだと言って、自らの手でたたき割るのだ。
不完全なものを残したくないという気持ちはわかるが、あまりにも性急ではないか?
そもそも人間が創り出すものに、完璧なものなどあり得ないのだから。
芸術の価値は時代とともに変わる。
人の歴史の中では、死後にようやく評価された芸術家など山ほどいるではないか。
陶芸であれば、使い込むことによって出てくる味わいというものもある。それを風情として楽しむことも、日本の「
百年、千年という時間でさえも、悠久の流れの中では刹那に過ぎないのだ。
何を焦る必要があろうか。人間とは実に短慮で愚かな生き物だ。
「はあ」
わたしはため息をついた。
思えばこの世界にはせっかちな人間があふれている。
少しでも早く結果を得ようと、自動車を走らせ、飛行機を空に飛ばす。
そんなに急いでどうするというのか?
加速度的に文明が発達し、人の暮らしはスピードを増していった。
行動範囲が大幅に広がり、生産力が爆発的に向上した。
その挙句、自らが時間に追われることになった。時間を売り買いし、人生を切り売りする。
心には常に余裕がなく、生活から潤いが失われた。
利便性を追い求めながら、余裕を失っていくその姿は大いなる矛盾ではないか?
改めて見渡してみるまでもない。
自然は破壊され、動植物の種はその数を減らしている。
環境は汚染され、再生不可能な領域にまで達してしまった。
この世界はどん詰まりに来ている。
社会全般に閉塞感が漂い、人間は希望を失ってしまった。
人類は滅びへの道をつき進んでいる。それを知りながら、後戻りすることができないのだ。
「ああ、醜い。こんな世界は嫌だ。どこに芸術を語る資格があろうか」
わたしは心に蓋をした。
深い悲しみと共に、わたしは自らの作品に見切りをつけた。
虚しさに満ちた心で、「惑星再起動装置」のスイッチを入れる。
「残念だ。思ったようにはいかないものだ」
宇宙空間から見下ろすわたしの目の前で、ひとつの惑星に変化が起きる。
惑星の内部で爆発が起き、地殻が膨れ上がった。
地球と呼ばれた惑星に無数の亀裂が走る。
やがて亀裂から真っ白な光が広がり、地球は輝く玉となった。
今度は白い球に黒い亀裂が無数に生じ、地球だった存在は内部に向かって崩壊していく。
「崩れていく……。何もかも崩れていく。これもまた滅びの美か……」
滅びるものの美は、失うことのむなしさと切り離せない。これも作品の一部といえよう。
わたしは作品の最後を見届ける。宇宙を住みかとする惑星芸術家としての責任であった。
崩壊が終わった後に残ったのは、どろどろとした真っ赤な溶岩に覆われた荒々しい幼年期の惑星だった。
「人のことを笑えない。わたしもまた随分とせっかちな芸術家だ」
失敗作を前にして、わたしは自分の短気を恥じる。
宇宙誕生と共に存在してきた宇宙意識たる自分が、なんとも幼い行動を取るものだと。
「たったの四十六億年で自らの作品に見切りをつけるとは」
だが、それもひと時のことだ。わたしは反省を打ち切り、心を切り替える。
さて、次の作品はどういうコンセプトで取り組もうか。
わたしはどろどろの地球をこね回しながら、次回作に心を遊ばせた。
「ああ。この瞬間が一番楽しい」
(了)