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第36回「小説でもどうぞ」佳作 家庭 仲井令

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第36回結果発表
課 題

アート

※応募数263編
家庭 
仲井令

 気分転換も兼ねて散歩に出てみたが、そうそう都合よくアイデアが落ちてくるはずもない。
 考えもまとまらないままぶらぶら街を歩いていて、たまたま入った企画展だった。偶然人のいない時間帯だったのかそのとき客は俺を除くと一人しか入っていない状態だった。自然その客と顔を合わせる回数も多くなる。
「こういったものに興味がおありですか?」
 相手の方からそう話しかけられたのがきっかけだった。展示会場から出たとき俺たちはすっかり意気投合していた。
 その老人は──老人といっても五十歳を過ぎたかどうかといった年齢であろうが──刈谷と名乗った。しかし頭はもう見事な白髪ぶりで、落ち着いた雰囲気もどこか老成した感じがあった。
 知性的な風貌もあいまって俺はその老人に教授と 綽名あだなをつけていた。もちろん心の中でだが。
 教授──刈谷老人は照れくさそうに、
「よかったら家に遊びにきませんか」
 と誘ってきた。
「芸術に興味があるのなら貴方にも私の作品を見てもらいたい」

 教授の家は小さな平屋の一戸建てだった。一見しただけでは芸術家や創作家の仕事場とは思えなかった。それともここは単に教授の生活の家で作業は他の場所でやっているのだろうか。
 そんな俺の想像をよそに教授は玄関の戸を開けて中に入っていく。
「おかえりなさい。あら」
 という声と一緒に女の人が現れた。年齢からして教授の奥さんだろうか。
「ただいま。それとお客さんだ。出かけた先で話があっちゃってね」
「そうですか。狭い家ですが、どうぞ」
 居間らしい部屋に案内されると、すぐに、
「なにも用意がなくてすみませんが」
 奥さんがお茶と小さい籠に入れたお菓子を持って入ってきた。
「いえいえ。こちらこそ急にすみません」
「どうぞ。ごゆっくり」と奥さんは襖を閉めて廊下に外に出ていった。
「いい奥さんですね」
「ははは。なになに」
 俺の言葉に教授はそれでも照れたように笑った。
 それから話題は今日見た展示会の出し物へと移っていった。しばらく話し合っていると、突然玄関の方から何やら大きな音が聞こえてきた。
 誰かが荒々しく戸を開けて家に入ってきたようだった。ドスドスという足音が居間の前の廊下までやってきたとき、
「利樹!」
 誰かが叫ぶような声がした。
「三日も帰ってこないで、どこで何をしていたの」
 どうやら声の主は奥さんのようだ。さきほどの物静かな様子からは考えられないほどの声量であった。
「うるせぇ」
 声からして若い男がこれも荒々しい声で叫ぶようにいった。
「待ちなさい!」
「るっせぇんだよ」
 廊下での激しい応酬に教授の方を窺うと、相手もこちらの視線に気づいたのか、苦笑を浮かべた。
「やれやれ。仕方のないやつだ」
 教授は困ったよう一言、立ち上がって襖を開いた。
「利樹。こちらにきなさい」
 いかにも荒れた青年といった風貌の若い男が教授の声に顔だけ振り向けた。
「なんだ。いたのか」
 教授を見て呆れたような顔で青年は呟いた。
「母親にむかってそんな口をきくものじゃない。母さんも私もどれだけ心配したか」
「るっせぇ! てめぇ! たまに顔をあわせたと思ったら説教かよ」
 ふん、と鼻息も荒く、教授の息子は足音を大きくたてて廊下の中ほどにある階段を上っていった。その後を追うように奥さんが階段を上っていく姿がこちらから見えた。
「どうも恥ずかしいところを見せてしまい、いや申し訳ない」
 座に戻ってきた教授は顔を伏せるようにして頭を掻いた。
「……息子さんですか?」
「……ええ」
 教授からもそれ以上の説明もなく、しばらく無言の時が流れた。その気まずい空気を払うように、「おお、もうこんな時間ですか。どうですか、よろしければご一緒に夕食でも?」
 そういう教授の誘いも、
「いえうちで用意しているので」
 といってさすがに断った。
「そうですか。ではせめて近くまで見送らせてください」
 教授はそういって腰をあげた。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ」
 夜の道を行く教授の背中を見てふと、そういえば教授の家にやってきたのは彼の作品を見るためだったな、と思い出した。
 しかしいまさらそのことを持ち出すのもどうかと思っていると、背中を見せたまま教授がぽつりと、
「ところで私は今の家とは別にあと六軒ほど家を持っています」
 唐突にいった。
「はい?」
「それぞれの家にそれぞれの家庭がありますよ。ある家での私は、妻を若い男に寝取られた旦那なのです」
 教授は淡々と告白するようだった。
「また別の家庭では私が『女房』であったりするわけです。あ。そうそう、『ペット』として飼われている家庭もありますよ」
 あくまで物静かな声であった。
「あなたは私が作品を見せたいといっておきながらその様子がなかったことを不審に思っているでしょうが──」
 教授はこちらを振り返った。
「あの家が、いえあの家庭が私の作品なんです。そう家族という人の繋がりが私にとって作品、アートなんですよ」
 そういってから教授は少し照れくさそうに笑った。
「年をとると若い頃みたいにもう無茶はできませんからな。いまは人との関係はそれぐらいが精一杯なんですよ」
 本当に今日は楽しかったですよ、という教授の別れの挨拶もどこか遠い夢のような気分のまま、どう歩いてきたのか、気がつけばいつの間にか自分の家の前にいた。
「もう、遅くなるなら連絡の一つくらいしなさいよ」
 妻の小言と一緒に家に入っていきながら、俺はただ一つの自分自身の「アート」に不思議にも奇妙な安堵感を覚えていた。
(了)