第36回「小説でもどうぞ」佳作 我が子 とがわ
第36回結果発表
課 題
アート
※応募数263編
我が子
とがわ
とがわ
パリンっと何かガラスのようなものが割れる甲高い音がした瞬間、少女はある一室の床に倒れこんでいた。しばらくじっとした後むくりと起き上がり、重力による身体の重みに驚きつつも慣れた足取りでその部屋の中を歩いた。当然、少女には見慣れない風景だった。
少女が歩くとコツコツと音がした。太いヒールのサンダルを履いていたためだった。少女はその足で外に出た。少女は白いワンピースを着ていて頭には麦わら帽子を被っていた。行きかう人々は少女を視線で撫でるように見た。人々は腕を露出していなかった。対して少女の腕は肩までむき出しになっている。季節は秋。残暑も過ぎ去って空気は冷える一方の中、タンクワンピースを身に纏い秋を知らせる風で
しばらく歩くと人通りが少なくなり、少女は解放されたかのように手のひらをいっぱいに広げ、仰ぐようにスキップまでし始めた。涼しげな風が音もなく吹いている。少女の長いストレートヘアがふわりと靡く。その様はまるで風と戯れる季節外れの幽霊のようだった。
少女は広々とした公園に入ると枯れた葉を踏んで遊んだ。水分を失ってカラカラになった葉の粉々になっていく音や様が少女には面白かった。その間も人々は少女を怪訝な表情で眺めていた。少女と言っても中学は卒業してるような年頃だ。ひとりで葉を踏み潰すのがそんなに楽しいのか。少女よりもずっと幼い子どもが、母親の手に引かれながら「なにあれー」と指をさして言った声を少女の耳はもちろん拾っていた。
誰も話しかけることをしないで変人と決めつけただ笑いの的にする人々の中でたったひとり近寄ってくる者がいた。気配を察知し少女は足元から視線をあげる。そこに立っていたのは少女と同じ背丈ほどの、皮膚に張りのないどこにでもいるような爺さんだった。目尻のしわを伸ばすように目を大きく開けて少女の姿を見ていた。
「なぁ。寒くないのか」
なんとか絞り出た言葉はなんの捻りもない、誰もが思っていたことで、様子をうかがっていた人々は拍子抜けした。少女は初めて話しかけられたことに感激して両の腕を大きく広げた。
「寒くないの!」
少女は笑顔でそういった。高揚しているせいかちっとも寒くなかった。爺さんは「元気な子だ」と少し泣きそうになりながら穏やかに微笑んだ。
「でも、風邪をひいたらいけない」
爺さんはそういうと羽織っていたカーディガンを少女に着せてやった。純白なワンピースに茶色のよれたカーディガンは合わないにもほどがあったが、少女はそのあたたかなぬくもりを気に入った。
「君、名前は?」
「たぶんない」少し考えても何も浮かんでこなかったので少女はそういった。
「いいや、ある。君は夏希だ」
爺さんは漢字まで教え自信を持って言い切った。人々は爺さんを認知症なのだろうと推測してさっきまで少女を馬鹿にしていた人たちは今度は同情をいだき始めた。
「夏希? そう、わたし夏希だった」
しかし少女が納得をした途端人々の同情の色は消えていった。少女にとって、夏希という名前の響きはすぐに体に馴染んで染み込んでいったのだった。
「夏希は、今楽しいかい?」
「うん。すっごく」
アトラクションにのってるわけでも、祭りに来てるわけでもない。滑り台の他に遊具のないただ広いだけの公園にいるだけなのに少女は心底楽しそうにしていた。ただ当たり前に息をし生きているのを実感するように。
ふたりの会話を近くのベンチに座って聞き耳を立てていた数人も、しばらくすると呆れて帰っていった。
「綺麗な世界なんだね」
傾いた太陽が空に描き出す幻想的な橙色をみて少女はそうつぶやいた。
「いい世界だろう。夏希はここにいるんだよ」
爺さんはたまに泣き出しそうになりながらそんなことをいった。少女は呆れることなくにこにこと笑い続けていた。
ほんのひとときだった。西の山に太陽が完全に落ちたとき、空の橙は夜の藍色に飲み込まれ、同時に少女は溶けるようにして消えていった。
爺さんが家に帰ると昔描いた絵が床に落ちていた。それは額縁にいれられ部屋の一番良く見える壁にかけられていたものだ。絵を大事に守っていたガラスが割れて床に飛び散っている。
かつて爺さんには妻がいた。子もいたはずだった。流産となった女の子。ひと目でもいいからと諦めきれなかった我が子の未来図を描いたのがその絵だった。しかし、
(了)