第42回「小説でもどうぞ」選外佳作 人は死に方を選べない 高橋衣里子


第42回結果発表
課 題
手紙
※応募数385編
選外佳作
人は死に方を選べない 高橋衣里子
人は死に方を選べない 高橋衣里子
深夜二時、スマホに着信があった。直感的に何か悪い知らせだと思った。心臓がどきんどきんと高鳴った。
それは一年前のことだった。一年で一番寒い二月の始め。東京に出張に行った夫が心筋梗塞で倒れ、病院に運ばれて危篤だという連絡が入った。なぜか夫の携帯から、若い女性の声だった。
朝一番の新幹線で、電話で聞いた病院へ向かう。夫は既に亡くなったと連絡を受けていた。対面した夫は、眠っているような穏やかな顔だった。
すぐそばに顔色の悪いやせた女性が座っていた。
「申し訳ありませんでした」
その女性は立ち上がって深く頭を下げた。
「あなた誰ですか」
意地悪な聞き方だったが、とっさに出たのはその言葉だった。女性は答えなかった。ただ下を向いていた。
「あなたの家で倒れたんですか」
質問を変えた。
「はい」
蚊の鳴くような小さな声が聞こえた。出張ではなかったのか。こんな若い愛人に逢いに行っていたのか。
「夫は出張だと言って家を出ました。あなたとはいつから」
「半年前からです」
よく見ると、顔色こそ蒼ざめていたがきれいな顔立ちをしていた。三十代前半くらいに見えた。五十代半ばの夫はこういう女性がよかったのか。私に嘘をつき、この女と逢っていた。そしてこの女の家で倒れ、死んだ。私のプライドをズタズタに傷つける裏切りだった。人生の最後にそんな形で死んでいくなんて。まるで私への復讐だ。
本来なら夫を突然亡くした妻は、悲しみに取り乱して泣くところなのだろうが、あの時の私は涙が出なかった。
「あの、持ち物、カバンはここにあります」
出張だと言って家から出かける時に持っていたビジネスバッグがあった。とんだ出張だった。これまでもそんな出張を繰り返していたのだろうか。私は何も気づかなかった。間抜けな妻だ。これではいい笑い者だ。
「あの、私、これで失礼します。あの、これ、私の連絡先です。すみません、必要ないかもしれないですが」
指先の長く細い手で差し出したメモ用紙には、携帯番号と名前が書いてあった。私が受け取ると、彼女は一礼した。
「主人がお世話になりました」
出ていく背中に私がそう言うと。くるりとこちらを向き直ってもう一度深くお辞儀をして去って行った。「主人が」を強めに言ったのは、せめてもの皮肉のつもりだった。お世話になったのは事実なのでそう言っただけだ。彼女の家で倒れ、たぶん彼女が救急車を呼び、亡くなるまで、亡くなった後もそばにいてくれたのだから。三十年以上連れ添った妻の私ではなく、たった半年愛人だった彼女が。彼女の名は、広川玲奈と書かれていた。いかにも若い名前。書かれた電話番号に連絡することなどあるのだろうか。
「おかあさん」
ちょうどその時、ひとり娘のユキナが入って来た。夫が亡くなったことはもう伝えてあった。父親のところへ行って「おとうさん、おとうさん」と呼びかけながら泣き続けていた。突然のことだったから、受け入れられないのだろう。
ユキナは神戸で家庭を持っている。父親に最後に会ったのは、一か月前のお正月だった。旦那さんのシン君と三歳の可愛い盛りの孫を連れて帰省していた。その時の父親は元気そのもので、孫息子の遊びに、にこにこしながらよくつきあっていた。
私には、やらなければならないことがたくさんあった。夫の会社や必要なところへの連絡、葬儀はどうするのか。義理の母は既に亡くなっていて、義父は認知症を患い施設にいる。夫の兄弟は、夫より五歳年上のお姉さんがいる。連絡はしてあり、もうすぐ来るはずだった。愛人のことは娘には知られたくなかったし、義姉にも言わない。私だけの胸にしまっておこうと決めていた。誰にも恥をさらしたくはなかった。
まもなく義姉がやって来た。いつも感情的になりやすい人ではあったが、こんなに急にどうしたのか、妻として健康管理はどうなっていたのだと私に詰め寄り責めた。義姉とのやりとりには疲弊した。
義姉をなんとか説得して、地元で家族葬にした。それでも夫の会社の人や友人たちは葬儀にやってきた。ありがたいことではあったが、会社の人は何となくよそよそしい感じがして、夫の会社での仕事ぶりがわかったような気がした。昔は熱血サラリーマンだったのに、変わってしまったのか。
少し落ち着いてから夫のビジネスバッグの中の荷物をあらためて確認すると、封のされていない茶封筒があった。その中には、糊で封がされた何も書かれていない白い封筒が入っていた。中を開けてみると、愛人の彼女宛ての手紙だった。
玲奈へ
短い間だったけれど、ありがとう。幸せな時間だった。でも、まだ若い君の未来を縛ることはできない。妻との離婚を考えたのは嘘ではない。でも、やはり選ぶべきはその道ではないとわかった。幸せを祈っている。
誠也
呆気にとられ、笑うしかなかった。これは茶番なのか、喜劇なのか。夫はこの手紙を彼女に渡すつもりで会いに行き、その前に病死してしまったということなのか。それとも、渡せなかったのだろうか。もし、別れ話がうまくついて夫が元気なまま帰って来ていたら、何も知らないまま、何事もなかったように過ぎていったのだろうか。そうだったらよかったのだろうか。それはわからない。
夫はきつい天罰を受けたのかもしれない。それは良い妻だったと胸を張れない私への天罰でもあったのかもしれない。
(了)