第43回「小説でもどうぞ」最優秀賞 さとう 伊藤ゆう


第42回結果発表
課題
依存
※応募数385編

伊藤ゆう
「……ああっ」
思わず、心の奥底から、その一言が漏れた。
都内築二十年を越す1Kアパートの扉を開けた瞬間、ドーナツ屋の紙箱の蓋を開き、中のドーナツを鷲掴みにして喰らつく。
三十路超えの女が仕事帰りにボロボロの状態でドーナツに齧りつく様は異様なのかもしれないが、ここは私の城だ。
誰の目を気にすることもない。
いつも通り残業をこなし、体力も気力も限りなくゼロに近い金曜夜の仕事帰り。
全く変化のない日々の通勤の道の途中、私の目に飛び込んだのはドーナツ屋だった。ミスターという名を冠するそのドーナツ屋の店名は、フェミニストが猛攻撃もしくは憤死するような名前なのだろうが、そんなものは私には関係ない。
私の心は、体は『砂糖』に支配されていた。脳内から『砂糖』を採れ、と命令が下り、私はそれに忠実に従っていた。
十個買ったドーナツを粗方貪り尽くした後、夢遊病患者のように覚束ない足取りで部屋の中へ歩いて行く。
狂気にギラつく眼差しで見つめる先にあるのは、女の一人暮らしには似合わないファミリー向け大型冷蔵庫だ。
冷蔵庫の中にストックされているのは大量の練乳と生クリームだ。ひとまず気を鎮めるために、練乳のチューブを手に取る。チューブを勢いよく押し、中身を口の中に流し込む。
脳を揺さぶる甘さと痺れる快感に恍惚となりつつ、冷静に生クリームの箱を開け、袋を揉みほぐす。すでに生クリームとして絞るだけになっている既製品のため、これも練乳と同じ要領で口の中に流し込む。練乳と生クリームが口内で混じり合い、その甘さに昇天しかける。
「ふぅ」
そのまま冷蔵庫の前で倒れ、冷たい床に身体を横たえる。床の冷たさと脳内に回った糖分が私を冷静にさせる。
そうすると込み上げるのはとてつもない罪悪感だ。
自分はどうしようもないダメ人間だ。
『砂糖』に支配された暮らしは、いずれ私の肉体を破壊する。すでに精神は蝕まれているのだろう。
両手で床を押して体を起こす。身体は鉛で重しが巻き付けられているのかと思うほど重く、起き上がるのも億劫で仕方ない。
だが、私にはやることがある。
明日の職場に持っていくためのスイーツ作りだ。
聞こえだけは素敵な趣味になるのだろう。だが、それは素敵な趣味などではない。
職場でも『砂糖』を摂取しないとイライラが止まらず、脳内は『砂糖』『砂糖』『砂糖』で埋め尽くされる。
作るお菓子は大体決まっている。練乳と砂糖を大量に入れて焼き上げるスイートポテトかクッキーの二択だ。生クリームは職場の冷蔵庫に入れなければならず、同僚にお菓子作りのことを突っ込まれたくはないからだ。
人に食べさせられるものではない。もの凄い甘さ、溶け切っていない砂糖をジャリジャリ食べる手作りお菓子は格別なものがある。
お弁当も持参しているが、その中身もぱっと見、和食中心の健康志向全開のお弁当だ。
その実態は健康からはほど遠い。
煮物はあり得ない量の『砂糖』と味醂で煮つけ、ほぼ『砂糖煮』だ。玉子焼きも常軌を逸した『砂糖』が入っている。
たまに中華的要素を持ち込み、角煮なども作るが、コーラを大量に入れて煮込んでいるだけの角煮とは名ばかりのナニカ、だ。
他人から見れば私は自炊を行い、健康的な弁当を持参し、趣味はお菓子作り、の少々ウザイかあざとい女に分類されることもあるのだろう。
そんなあざとさを追い求めているのではない。私は糖分が切れると気が狂う、アル中やニコ中と同類のジャンキーだ。
職場でいただく『砂糖』の甘美な甘さは背徳感がある。
無論、持ち込んでいる糖分はこれだけではない。
コーヒーや紅茶に入れて飲むように常備している個別包装の角砂糖も机の上に用意している。角砂糖はわざわざ取り寄せているイタリア産のオーガニック角砂糖だ。
健康志向? そんなもので角砂糖を選ぶはずもない。スティックシュガーだとお洒落さがない。しかも、角砂糖ならそのまま口に入れて食べることができる。万能な形状の『砂糖』だ。
お洒落さと健康志向を外向けにアピールするために取り寄せたカモフラージュ『砂糖』だ。個別包装だと、こっそりハンカチやタオルに隠し、トイレに持ち込み、その場で食べることが出来る。
私の少ない給料はこの狂った食生活により瀕死の状態であり、健康診断の結果も最近は思わしくない。
それでも私はこの生活を改善することも、やめようとする努力もしていない。
私は『砂糖』の奴隷。
心も、身体も支配されている。
人との付き合いもない。この狂った食生活を人の前でできるはずもない。
食事は絶対に一人と決めている。
家族も知らない。
私だけの秘密。
いつか私は『砂糖』に殺されるだろう。
その日が来るまで、私は『砂糖』と生き続けよう。
そんな『砂糖』狂いの私の名前は「佐藤愛」。