第43回「小説でもどうぞ」佳作 猫魔世界 福雪蕗乃


第43回結果発表
課 題
依存
※応募数367編

福雪蕗乃
今朝、スマホを取り上げられた。あんなに盛大に叱らなくても。たった五時間、好きなゲーム画面を見続けただけなのに。スマホゲームは私にとって唯一の生きがい。それなのに。
家にいても他に何も手につかないので、毛糸の帽子を被ってスキーのストックを片手に、散歩に出かけることにした。外は明るく快晴だが路面はツルツルで、ゆっくり歩かないと危ない。ストックは杖の替わりで、ここら辺の中高年はみんなこれを頼りに歩いている。転んで大腿骨なんて骨折したら寝たきりになる危険があるので、ゆっくり慎重に。
「こんにちは、どちらへ行かれるんですか」
挨拶してくれたのは、隣家の黒猫。赤い首輪の彼女が、私と会話できるようになったのは約一年前で、猫魔世界というゲームにハマり始めた頃のこと。猫から不意に声を掛けられても、割と普通に現実と受け止められたのは、そのゲームのおかげだった。猫の魔法使いが、世界を救う伝説の桜を仲間とともに探しに行く壮大なファンタジー。主人公の猫は善良で優しく、周囲の猫を大切にするキャラだ。隣家の黒猫はその主人公と姿形や性格がよく似ている。私とお互い妙に話が合うのは、彼女が十五年生きているからか、私が七十年生きているからか。
「いえ、家にいてもやることないからちょっと散歩にね」
私は娘にスマホを取り上げられたことを猫に説明した。
「わかるわぁ、ゲームをやっていたら五時間なんて一瞬なのに、人から見たら依存症としか思われないのよね」
「え、猫もゲームやるの」
「そうよ、飼い主が寝ている間に。最近の飼い猫はみんなやってるわよ」
「バレないの?」
「大丈夫よ。家のWi-Fiは料金無制限だし、課金なんかはしていないから」
「すごいわね」
「だいたい飼い主は猫に対して無防備で、パスワードなんて普段から覗き見し放題だもの。むしろ飼い主より正確に記憶しているくらい」
「賢いのねぇ」
感心していると、玄関のドアが開いて白髪頭で花柄エプロン姿の飼い主が出てきた。小さく会釈をして、猫を抱きあげて静かに家の中に戻っていった。本当は、お宅の猫ちゃん喋りますよねと聞いてみたいけれど、呆けたと思われても困るので聞けない。あの猫はいったい何のゲームをしているのかしら。聞けない。
陽が傾いて急に寒さが増してきたので、町内を一周して帰ることにした。でも家に着いてもゲーム以外に他にやることがない。夫とは若い頃に離婚して、四十代の娘と二人暮らし。孫のいる人は生活に張りがあって現実が楽しいだろうけど、私の子は結婚せず子どももつくらなかった。毎日部屋にこもって仕事だと言いながらPC画面を睨みつけている。親を見てそうなったのか、育て方が良くなかったのか。娘は私が緑内障と白内障とドライアイの目薬を入れながらゲームに没頭していることに、毎日怒り狂っている。
「母さんは目が見えなくなってもいいの!」
眉間に縦皺なんて刻んじゃって。小さい頃は可愛かったのに。でも、私がいなくなったらひとりで寂しいに決まってる。もっと若い頃に沢山お見合いを勧めておけば良かった。あれこれ後悔しても仕方ないけれど、スマホがないとつい余計なことを考えてしまう。あんなに現実と時間を忘れられる効果的な暇つぶしの道具はほかにない。絶対に。スマホがなくても猫魔世界をどうにかして続ける方法はないかしら。せっかく新しいダンジョンで光跡魔法のスティックを手に入れるところだったのに。
気がつくと辺りは薄暗くなっていて、灰色の空に雪が渦を巻いている。はやく帰らなきゃ、と振り向いたそのとき。気がつくと、見慣れた風景の中にあるはずの家がない。ここはどこ? 急に厳しい寒さが押し寄せてくる。私、頭がおかしくなっちゃったの? かつてないほどの心細さと絶望感、もう人生の最期も近いのかもしれない。神様、もし猫が本当にゲームできるのなら、生まれ変わったら猫にしてください。その瞬間、手に持っていたストックの先から一条の白い光がすうっと伸びて、道路脇の小さなかまくらを指し示すのが見えた。隣家の猫にそっくりなシルエットが中に吸い込まれて行く。必死で追いかけて入り口を覗き込むと、伝説の桜の下で無数の猫たちが楽しげに宴会をしているのが見えた。ざっと百匹は超えている。ここは猫魔世界の中に違いない。満開に咲く桜の幹には「猫も杓子も自分の人生は自分で意味を見つける」と書かれたお札がぶら下がっており、あちこちから、猫に自由を! PV100万回再生突破おめでとう!などという声が聞こえてくる。
背後から雪を踏みしめる足音とともに、誰かが近づいてきた。娘だ。上着も着ないで、急いで出てきた様子。
「母さん、あんまり遅くまで帰って来ないから心配したじゃないの!」
「ごめんね、でも私、もうゲームの世界でしか生きられないの」
娘はふうっと息を吐いて、小さく「わかったわよ、スマホは返す」と呟くように言った。
「次にリリースする予定の猫魔世界2は、もっと目に優しい色彩で、プレイヤーが画面を長時間見続けないように工夫する。それから、ゲーム制作者のプライドにかけて、とびきり面白いストーリーにするよ。だから、母さん、帰ってきて」
(了)