第43回「小説でもどうぞ」佳作 テディベア、我が相棒 杜緒悠


第43回結果発表
課 題
依存
※応募数367編

杜緒悠
口を広げたゴミ袋の前に座り込んだまま、秀城はこの数時間、動くことができないでいる。
両手に捧げ持っているのは、年季の入ったテディベア。
記憶がある限りの全ての歳月を、秀城はこの、グレゴリーと名づけたテディベアと共に過ごしてきた。赤ん坊の頃の写真にはもう共に写っている彼は、意外なことに、厳格で秀城が人に遅れをとることを許さない父が買ってきたものらしい。この愛らしいクマがのちに、秀城にとってどんな存在になるのか、父は見抜いていただろうか。
小五の頃、優しかった母が闘病の末他界したときの悲しみも、グレゴリーが紛らわせてくれた。中学からの地元を遠く離れた寮生活のさびしさ、学業もスポーツも抜きん出ることを求めてきた父からの重圧、高給だが激務の仕事のストレス、何もかもグレゴリーにやわらげてもらっていた。
でも。
結婚したい、と思える相手が、秀城の前に現れた。父の眼鏡にもかないそうな、完璧な女性だ。彼女と結ばれることができなかったら、『家柄にふさわしいお相手』とやらを、父や親類縁者からあてがわれることは目に見えている。なんとしても彼女の心をとらえ、伴侶となってもらわなければならなかった。
秀城は手の中の、グレゴリーを見つめる。
抱きしめたり、ひきずったり、時には涙をふいたりして、だいぶくたびれてしまっている。ほころびたところは、秀城が自ら針仕事をして、不恰好ながらふさがっていた。
ぬいぐるみに依存する男を、女性は好まない。彼女も例外ではないことを、秀城はそれとなく確かめていた。グレゴリーとは、ここまでだ。これから先の人生がかかっているのだ。過去に、思い出にとらわれているわけにはいかないのだ。
秀城は目をつぶって、グレゴリーを空のゴミ袋の中に放った。
袋の口を、結ぼうとする。
両手に持った袋の端を交差させようとしたところで、手が止まる。
しばし、固まっていた秀城は、袋の口を引き裂かんばかりの勢いで開き、中からグレゴリーを救出、力を込めて抱きしめた。
彼の温かな毛皮の感触に、離れがたく
マンションのエントランスへの来客を告げる、ドアホンが鳴った。秀城はグレゴリーを抱いたまま立ち上がり、インターホン画面を確認する。
「来ちゃった」
秀城が一番美味しいと思うパティスリーの紙袋を提げて、悪友の翔佑が満面の笑みを浮かべていた。
秀城は長く息を吐いて、エレベーターホールへの自動ドアを開いた。
居室の玄関先で出迎えると、翔佑は秀城の腕の中のグレゴリーに、軽く手を挙げてみせた。
「よっ、グレゴリー」
翔佑は中学、高校の同級生で、六年間寮の部屋も一緒だった。当然、グレゴリーのことも、よく知っている。翔佑自身は親元を離れての寮生活も、最初からけろりと馴染んでいたが、心細さにグレゴリーを抱きしめる秀城を、笑ったりからかったりはしなかった。陽気な口調でグレゴリーにも話しかけまくる彼のおかげで、寮生活の思い出は、三人部屋で過ごしたような明るさに彩られている。
翔佑はケーキの箱をテーブルに置くと、我が物顔で湯を沸かし始めた。
「季節限定のケーキ、すっごい人気でさあ。開店前から並んで、それが最後の二つ。買えてラッキーだったけど、七個とか買う客がいて、列から見ててもう、気が気じゃなかった」
「なんでわざわざ」
「秀城好きじゃん? プリンスメロン」
確かにプリンスメロンは秀城の好きな果物だったが、それに限らず翔佑は時折、並ばないと買えない限定ケーキを手土産に、ふらりと秀城の部屋を訪れる。開店前から並ぶ気力などない秀城は、そのおかげで、一番好きな店の美味しいケーキを味わうことができるのだ。
グレゴリーをしっかりと抱えた秀城のただならぬ様子や、広げられたゴミ袋に、翔佑が気づいていないとは思えない。しかし翔佑は、持参した茶葉で悠々と香りの良い紅茶を淹れ、和やかなティータイムに秀城を誘った。
悩みも全ていったん溶けるほど美味しかったケーキを堪能したあと、秀城は翔佑に、ぽつりぽつりと話し始めた。彼女のこと、彼女と結婚できなければ、好きでもない相手と結婚せざるを得なくなるであろうこと……
もうグレゴリーとは一緒にいられない、と秀城が絞り出すと、翔佑は秀城に向かって、両腕を差し出した。
「翔佑?」
「預かるよ、グレゴリー。会いたくなったら、うちに来ればいい」
秀城はあわてた。
「だめだろ。お前がお前の彼女に変に思われる」
「オレは彼女に、ありのままを話せばいいだけだし、友達の大事な親友を預かってる、って。今の彼女、そういう男同士の友情バナシが大好物だから、実はオレ得でもある」
翔佑はそう笑って、さらに両腕を突き出してくる。
秀城にはわかっていた。
秀城の欲しいもの、してほしいことを、先回りして差し出してくれる、長いつきあいの友。このまま翔佑に依存してしまったら、それは、グレゴリーへの依存よりも深く、
それでも、抗うことが、できない。
腕を広げて秀城を招いている翔佑の胸に吸い寄せられるように、秀城はグレゴリーを翔佑に差し出し、その手にゆだねた。
(了)