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第43回「小説でもどうぞ」佳作 浮力 猫壁バリ

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小説でもどうぞ
第43回結果発表
課 題

依存

※応募数367編
浮力 
猫壁バリ

 朝。カーテンの隙間から柔らかな陽光が差し込んでいる。伸びをして、身体を起こす。清々しい気分だ。疲れはなく、眠気もない。自然と目が覚めた。起床時間は決まっていない。目覚めた時に起きる。この場所での一日はこうして始まる。
 キッチンに行き、コーヒー豆を挽く。窓外には雄大な草原が広がり、峰々の稜線が見える。マグカップの湯気を通して、その風景を眺めた。
 かつては考えられなかった生活だ。あの頃は切迫感に駆られて生きていた。顧客と上司に振り回され、時間と数字に追わていた。仕事に尽くすことだけが生きる意味だった。だが、そんな生活は唐突に続けられなくなった。ある日、目覚めると身体の様子がおかしかった。大きな岩の下敷きになっているかのように身体が動かない。数時間かけて戸外へ出て、這うようにして会社へ辿り着いたものの、パソコンの使い方が思い出せない。話しかけてくる上司や同僚の言葉も上手く聞き取れない。彼らの名前も分からない。
 病院へ行くと、精神病の類いだと診断された。仕事依存症により精神障害が起きているとのことだった。自分の人格が否定されたようで腹が立ち、医者に暴言を吐いた。感情的な反応こそ依存症の証拠だと宥められ、返す言葉がなかった。言われるがまま、この施設に入った。
 ここは依存症の治療施設とのことだった。病棟があるわけではない。案内されたのは、牧草地に建つ小ぶりのコテージだった。施設の利用者には一人ずつ、コテージがあてがわれる。一軒ずつ離れており、利用者同士が顔を合わせる機会は少ない。高原に位置することは確かだが、具体的な場所は知らされていなかった。何県なのかも分からない。余計な情報は少ないほうが回復が早いとも医者に言われていた。
 ここでの生活に、始めは戸惑った。やることがないのだ。施設のスタッフからは、決められたことをするのではなく、やりたいことをするようにと言われた。やりたいことなど思いつかなかった。パソコンやスマホを持ち込むことはできず、話し相手もいない。部屋の本棚には古い詩集と植物図鑑がいくつか置かれてあった。詩集を手に取りページを捲ったが、内容は頭に入ってこなかった。
 することもなく、ソファに寝転がって目を閉じた。次に目を開けた時、部屋は暗闇の中にあった。午前中だったはずが、窓には月が浮かんでいた。灯りをつけて壁の時計を確認すると、十五時間も眠り込んでいたようだった。眠っている間にスタッフが置いていったスープを鍋で温め、パンと共に食べた。そして再び眠りについた。
 食べて寝るだけの生活が続いた。睡眠時間の長さに自分でも驚いた。かつては四時間未満の睡眠でも眠気を感じなかったが、今まで無理をしてきたのかもしれない。眠っている時間以外は、コテージの前のベンチに座り、草木を揺らす風にあたっていた。長い睡眠時間は徐々に短くなり、やがて八時間ほどで目覚める生活に落ち着いた。食事も当初は出来合いのものをスタッフに運んでもらっていたが、キッチンの器具を使い、自ら調理するようになった。
 日を重ねるにつれて思考が明瞭になり、いくつかの疑問が浮かんだ。ここでの生活はいつまで続くのか。施設の利用料金はどうなっているのか。食材を届けるスタッフに訊ねたところ、支払いは発生しないという。施設を発つ時期は未定で、その時が来たら告げるとのことだった。コテージに時計はあるが、カレンダーはなかった。この施設に入ってからどれだけの日数が経ったのか、ほとんど曖昧になっていた。
 そのうち散歩に出かけるようになった。どこまで行っても草原で、野花や樹木が生えているばかりだった。それでも不思議と退屈はしなかった。青々と揺れる牧草の波間に、小さな花の紫や赤といった色彩を見つけて歩いた。
 ある日の散歩の途中、初めて他の施設利用者と会った。初老の男で、岩場に腰かけて夕陽を眺めていた。少し迷ったのち、男に話しかけた。挨拶すると、男もゆっくりと挨拶を返した。しばらく無言で夕闇を眺めてから、男は口を開いた。明日この施設を発つ予定だという。
「この施設は気に入っています。ずっと暮らしたいくらいだ。でも、それではこの施設に依存していることになりますからね。もう依存はこりごりです。私はこの土地を去らなければいけない。この場所にある重力とは別れなければいけないんです」
 随分と詩的な物言いをする人だなと思った。ただ、男の言葉を反芻して過ごすうち、自分も似た気持ちになっていることに気がついた。
「明日、あなたはこの施設を出ます」
 それからしばらくして、スタッフがそう告げた。
「以前の生活に戻るのですね」
「いえ、あなたはもう、戻ることを望まないはずです。この土地との依存を絶ち、新しい重力の場所へ赴くのです」
 スタッフが指を差した空の空間が歪み、銀色の円盤が現れた。スタッフの姿も、緑色の肌をした、腕が四本と目が三つある生物に変わっている。
「あの円盤に乗り、私たちの星へ行くのです」
 ああ、それもいいなと思った。
(了)