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第43回「小説でもどうぞ」選外佳作 手と手が重なるとき 木船りん

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小説・シナリオ
小説
小説でもどうぞ
第43回結果発表
課 題

依存

※応募数367編
選外佳作 

手と手が重なるとき 
木船りん

「ふー。あぶねえ」
 おれは仏頂面の教師から渡されたテスト用紙を見て、口のなかでこう呟いた。物理は苦手だ。生物だって苦手だ。なかでも一番嫌なのは、やっぱり国語だ。だって、よくわからない架空の人物の話を聞いて、何が面白い。……いや、漫画はちょっと面白いけれど。でも、それをテストにするなんて、一つの答案に収めるなんて、絶対におかしい。おれは当時(今でも実はそうだが)、そんな言い訳をすることで勉強ができない自分をなんとか正当化することができていた。
「水島!」
 自分が呼ばれたわけではないのに、ついびくりとしてしまう。教壇までとぼとぼと歩く彼女の姿を凝視していると、隣の安田が肘でつつく。
「おい、お前水島が好きなんか」
「……いや、そうじゃない。……ほら、あいつ国語いつもいい点数だろ? おれ、馬鹿だからつい羨ましくて」
「水島の点数を把握しているってことが、好きである証拠だな」
 おれは安田をぎっと睨み付けた。彼は視線を黒板に戻し、口をすぼめている。安田に聞こえるように舌打ちをして、おれも視線を戻した。
 高校三年生の秋って、人生で一番嫌な時期だ。否が応でも、将来のことを考えなくてはいけない。おれを取り巻く空気がなんとなくべったりとしていて、周りの友達は灰色の瞳で抑揚のない話し方をしているように感じる。部活を引退してから急激に猫背になった気がする。
「やりたいことが見つかればな……」
 そう、当時のおれはいい訳ばかりだった。とは思いつつ、これには一理ある。やりたいことが見つかったからといって頭が良くなるわけではないにしても、今よりも少しは長く机に座っていられるはずだ。……よし、二十分は座っていられた。おれにしては上出来だ。今日はここまでにしよう……。
 おれが腰を浮かそうとしたところに、がらりと扉が開いて水島が自習室に入ってきた。無論おれは腰を落ち着かせる。今度は周囲にバレないように横目で彼女を見る。忌々しい真っ赤な本を左手に抱えていた。
「群都大学か……」
 水島はやっぱり頭がいいんだな、と思った。おれにはとても国立大学に行く学力はない。ため息をついた。なんだか自分が情けなくなってきた。そして彼女がおれの横を通過しそうなので慌てて視線を戻した。
 ……バタン。……これは運命のいたずらか? その当時単純だったおれはそう思ったに違いない。だって、まるで図ったようにおれの真横を通過するときにその本を彼女が落としたから。まあ、たまたま机の角にぶつかっただけなのだろうけど。
「大丈夫……ですか?」
 おれは瞬時に本を拾って彼女に手渡した。彼女は頬を赤らめて、「ありがとう」とだけ言った。そう……この栗色の瞳! おれが彼女に惚れてしまった理由は、たぶんこれだ。
「あ……群都大学、目指しているんだね」
 幸い、この時間の自習室は他に数名しかいなかった。小声で話す分には問題ない。というかこのチャンスを逃すわけにはいかない。
「そう、一応ね」
「ちなみに、何学部?」
 そう聞くと、急に彼女の顔色が変わった。赤らんだ頬の艶が増し、瞳の輝きはいつもの百倍にも輝いて見えた。
「医学部保健学科……わたし、理学療法士を目指しているの」
「あ、おれも……おれも理学りょうようし目指しているんだ!」
 今思い出しても馬鹿だな、と思う。でも今となっては、当時の馬鹿なおれに感謝したい。
「そうなの!?……ごめん」
 少し遠くから他の生徒の咳払いのような音が聞こえて、お互いに俯いて頬を赤らめた。そして、二人してくすくすと笑った。
「理学療法士を目指している友達が周りにいなくて、すごく不安だったの。だからとっても嬉しくて。松田くん、お互い頑張ろうね」
 囁きに近い小声で彼女は言った。そして……彼女はおれの手を取った。いや、その時は深い意味なんてなかったと思う。同じクラスだってほとんど話したことはなかったし。同じ職業を目指す同士としての証、くらいの所作だったのだろう。けれどもこの瞬間に、おれの将来が決まった。理学りょうようし、ではなく理学療法士になるという将来が。
 理学療法士になった今、思うことがある。スポーツ選手として活躍するのに才能が必要であるように、「ひとを癒やす」ことにもどうしたって才能が必要な部分がある。それは治療技術やコミュニケーションスキルを超えたところにある、と思う。彼女の手。もちろん、個人的な感情が乗っかっていることは否定しない。けれども、あのとき彼女とおれの手が重なったときの温かさ。どんなに表面的な技能を高めても到達できないであろうあの感覚。忘れることなんてできない。おれはこの仕事で、こんなにふわりとして厄介なものを追い求めてしまっている。それは一種の依存かもしれないが、そうだとするならば、おれは甘んじて受け入れる。
(了)