第43回「小説でもどうぞ」選外佳作 私的財産 深谷未知


第43回結果発表
課 題
依存
※応募数367編
選外佳作
私的財産 深谷未知
私的財産 深谷未知
私の母は、とにかく気まぐれな人だ。誰かから聞いたことをすぐ真に受ける。そして、家族に押し付けてくる。私は、それがすごく嫌だった。自分が信じていることを話すのはいいが、正しいことだと押し付けてくるのは、おかしいと思う。
だから、社会人になり、一人暮らしを始めてからは、実家に帰ることは年に数日しかなかった。母に会いたくなかったからだ。電話も無視した。母が体調を崩しても、なかなかお見舞いに行けず、いよいよ危ないと聞いて、慌てて病院に行くも、ベッドに横たわる母を見て、その痩せて小さくなった母が、何だか別人に見えて驚いた。
意識は
母は、回復することなく、数日後亡くなった。
通夜や葬儀が済み、憔悴する父に頼まれ実家に数日泊まることになった。会社には、有休を消化することを伝え、仕事があるからと、慌ただしく自宅のアパートに帰った弟を見送り、実家の片づけを手伝う。
母の荷物は驚くほど少なかった。虫の知らせでもあったのか、片付いた母の部屋の中を、ゆっくり見回す。パソコンの置かれたテーブルも、押し入れの中も荷物がほとんどなく、服も数着しかなく、片付けることもほとんどなかった。段ボールにリサイクルショップに持っていく服を詰め、ごみ袋に化粧品を捨てる。何か欲しいものがあれば、持って行ってもいいぞと、父は言っていたが、使う気になれない。私が使っているものと違うからというのもあるが、母が愛用していたというだけで、何となく使う気になれない。
片付いた部屋を見回すと、他人の家に来たような居心地の悪さに、肩をすくめた。母は何を思ってこの部屋をこんなに片付けたのだろう。病院から退院して元気になることを諦めていたのだろうか。
ふと、パソコンの置かれたテーブルの横に、何冊かのノートが置かれているのに気付いた。何度も開いて読んでいたのか、表紙の角は曲がり、反り返っていた。手に取って中を見ると、びっしりと母の神経質そうな文字が並んでいた。誰それさんから聞いた掃除のコツ、体調を崩した時には、これがおすすめ、癌を予防すること、丁寧な暮らしのコツなどがノートにびっしりと書かれていた。読んでいるだけで、胸やけしそうだ。
ノートの隅に小さく、娘はこんな私をいつも馬鹿にしている、と恨み節のような文章も見つけた。
某月某日、今日も娘は電話を無視した。私が伝えたいことを、いつも冷たい目で拒絶する。私が嫌いなんだ。
某月某日、娘はこの前はこんなこと言ってたけど、今はまったく逆のこと言うねと、ダメだししてくる。ぐうの音も出ず、悔しい。
某月某日、娘に、いちいち私に自分の考えを押し付けることやめてよと、怒鳴られる。娘が、すごく遠くに行ってしまったようで寂しい。父親とはあんなに仲良く話すのに、私を見ると汚いものでも見るような目で見てくる。そんなに嫌いなの私のこと。
読んでいるだけで胸が苦しくなり、ノートを閉じた。ごみ袋にノートを入れて、部屋を出る。リビングでコーヒーカップを握りしめ、ぼんやりする父の隣に座る。
「あのさ、お母さん私のことなんか言ってた」
父はちらりと私に視線を向けて、力なく笑う。
「そうだな、母さん、お前のことばっかり気にしてたよ。入院しても全然見舞いに来ないとか、来ても数分話してげんなりして帰っていくから、もう来なくていいよって言いたいけど、寂しいから来て欲しいって悩んでたよ」
そう言って父はコーヒーを一口飲んだ。
「少し疲れたから、散歩行ってくる。仕事明日まで休みだから、今日泊まってくね」
父は、小さく頷き、また視線を窓の景色に戻した。
玄関には、母の靴と、父の靴、私の靴が並んでいた。もう履く人の来ない靴は、ひっそりと足を入れてくれるひとを待っていた。母の靴を掴んで、母の部屋に行く。ドアを開けると、一瞬、影が揺らめいた。だがすぐに、気配は消えた。母の幽霊でも現れたのだろうか。母の靴を持ったまま、しばらく立ち尽くす。母の香水が鼻をかすめた。ごみ袋に、母の靴を入れる。先ほど入れたノートが目に入る。
目の奥が熱くなる。私は何故あんなにも母に冷たくしていたんだろう。嫌だったとはいえ少しは話を聞いてやるべきだった。後悔しても後の祭りだ。ごみ袋から、そっとノートを取り出して、パソコンの横に置く。母がしがみついていたのは、誰かの知恵袋だったのか、それとも違う何かだったのか、今となってはそれは分からずじまいだ。
足早に部屋を出て、リビングに向かって「いってきます」という。父の返事とともに、母の声がした気がした。外に出ると、冬の空気に交じってあまい香りがした。散歩から帰ったら、ノートを読み返そうと思った。
(了)