第11回「小説でもどうぞ」最優秀賞 しばしのお別れ/山崎雛子
第11回結果発表
課 題
別れ
※応募数260編
「しばしのお別れ」山崎雛子
「私たち、もう終わりにしましょう」
そう言うと、女は静かに銃口を向けた。
まあ落ち着け、などというその場しのぎの言葉は、最もこの場にふさわしくない。
男は胸ポケットから煙草を取り出して女に勧めた。女は一瞥もくれずに黙って首を振った。
目顔で女に断りを入れてから、男は煙草に火をつけ、ゆっくりと肺に煙を流し込む。それが何の役にも立たない時間稼ぎであることは男も十分承知していた。男は忙しく頭を巡らせる。
ふと、来週の日曜日に娘のピアノの発表会があるのを思い出した。
「パパ、約束よ。絶対見に来てね」
まだ何も知らない幼い娘も、長い人生のどこかで何かが狂い、愛する男に銃口を向けることもあるのだろうか。いや、その前に、その身を亡ぼすほどに恋い焦がれる相手にいつか出会うのだろうか。恋は避けられない事故のようなものだと言ったのは誰だったか。遠い日の自分は、火花の散るほど激しい恋に憧れていたくせに、娘には平凡でも穏やかなハッピーエンドを望むのだから身勝手なものだ。
女は緋色のドレスがよく似合っていた。だが、首元が少し詰まりすぎているのが気になった。綺麗な鎖骨をもっと見せたほうがいい。そうだ、去年の誕生日に買った、青いやつがあるじゃないか。あれがいい。袖のふくらみが華奢な腕をもっと優雅に見せるし、高めの位置で切り替えられたウエストから裾に向かって流れ落ちるスカートのラインも美しい。しかし、光沢のある生地が、今度娘が発表会で着るワンピースにそっくりだと気づいて苦笑が浮かぶ。そりゃ仕方ないさ、好みだからなと心の内で呟いた。
「きっと、出会ったのが間違いだったのね」
「そうかもしれないな」
「時間を戻したいわ。私たちが出会う前に」
低くやわらかいアルトの声を絞り出すと、女は唇を固く結んで目を閉じた。胸の内に吹きすさぶ激情を見事に制して、銃口の微かな震えが止まった。
やがて彼女は静かに目を開けた。真実の深淵を覗き込もうとするように強い意志を持った眼差しが再び男を捉えたとき、今にもあふれ出しそうに光るものが女の目に浮かんでいるのを男は見た。だが、それが決してこぼれ落ちることはなく、湖のようにそこにとどまり続けるであろうことを、男は誰よりもよく知っていた。
涙を流せば楽になることだってあるだろうと思うのに、彼女は決してそうはしないのだった。涙を流すより先に、一歩踏み出すことを選ぶ。けれども、その一歩が破滅へと導くものであるなら、この身を挺しても全力でそれを止めなければならない。いくらか長じている者の務めとして人生の機微を伝え、慈しみ、惜しみなく愛情を注いできた。同時に彼女の無垢な魂に触れることで、自分の人生がどれほど鮮やかに彩られ、豊かで深みを増したものになったか、彼女が与えてくれたものははかり知れない。そんな彼女を失うかもしれないという恐怖が突然、体を貫いた。彼女に引き金を引かせてはならない。
「何度やり直したって無駄だ」
「なぜ?」
「俺が間違えるからさ、同じところで」
「救いようのないお馬鹿さんね」
女の寂しげな微笑に男は確信した。彼女はまだ俺を愛している。まだ間に合う――。
「パパ」
娘が顔を出した。
「こっちに来ちゃ駄目だ」
私は少し怖い顔をして娘に言った。
「だって。電話よ」
口を尖らせて娘が言う。
「誰から? ジャックか」
「ジャックだって」
娘はころころと笑いだした。
「誰それ? 編集のTさんよ」
「わかった。いま行く」
「すぐにご飯ですよ」こういう言い方は妻そっくりだ。
「だから、早く来てね」
娘の姿がドアの向こうに消えた。
私はひとつ伸びをして、パソコン画面の原稿を保存した。絶対絶命のジャックの寿命は少し延びたようだ。私は銃口を向けたまま立ち尽くしているヒロインに、しばしの別れを告げた。
(了)
そう言うと、女は静かに銃口を向けた。
まあ落ち着け、などというその場しのぎの言葉は、最もこの場にふさわしくない。
男は胸ポケットから煙草を取り出して女に勧めた。女は一瞥もくれずに黙って首を振った。
目顔で女に断りを入れてから、男は煙草に火をつけ、ゆっくりと肺に煙を流し込む。それが何の役にも立たない時間稼ぎであることは男も十分承知していた。男は忙しく頭を巡らせる。
ふと、来週の日曜日に娘のピアノの発表会があるのを思い出した。
「パパ、約束よ。絶対見に来てね」
まだ何も知らない幼い娘も、長い人生のどこかで何かが狂い、愛する男に銃口を向けることもあるのだろうか。いや、その前に、その身を亡ぼすほどに恋い焦がれる相手にいつか出会うのだろうか。恋は避けられない事故のようなものだと言ったのは誰だったか。遠い日の自分は、火花の散るほど激しい恋に憧れていたくせに、娘には平凡でも穏やかなハッピーエンドを望むのだから身勝手なものだ。
女は緋色のドレスがよく似合っていた。だが、首元が少し詰まりすぎているのが気になった。綺麗な鎖骨をもっと見せたほうがいい。そうだ、去年の誕生日に買った、青いやつがあるじゃないか。あれがいい。袖のふくらみが華奢な腕をもっと優雅に見せるし、高めの位置で切り替えられたウエストから裾に向かって流れ落ちるスカートのラインも美しい。しかし、光沢のある生地が、今度娘が発表会で着るワンピースにそっくりだと気づいて苦笑が浮かぶ。そりゃ仕方ないさ、好みだからなと心の内で呟いた。
「きっと、出会ったのが間違いだったのね」
「そうかもしれないな」
「時間を戻したいわ。私たちが出会う前に」
低くやわらかいアルトの声を絞り出すと、女は唇を固く結んで目を閉じた。胸の内に吹きすさぶ激情を見事に制して、銃口の微かな震えが止まった。
やがて彼女は静かに目を開けた。真実の深淵を覗き込もうとするように強い意志を持った眼差しが再び男を捉えたとき、今にもあふれ出しそうに光るものが女の目に浮かんでいるのを男は見た。だが、それが決してこぼれ落ちることはなく、湖のようにそこにとどまり続けるであろうことを、男は誰よりもよく知っていた。
涙を流せば楽になることだってあるだろうと思うのに、彼女は決してそうはしないのだった。涙を流すより先に、一歩踏み出すことを選ぶ。けれども、その一歩が破滅へと導くものであるなら、この身を挺しても全力でそれを止めなければならない。いくらか長じている者の務めとして人生の機微を伝え、慈しみ、惜しみなく愛情を注いできた。同時に彼女の無垢な魂に触れることで、自分の人生がどれほど鮮やかに彩られ、豊かで深みを増したものになったか、彼女が与えてくれたものははかり知れない。そんな彼女を失うかもしれないという恐怖が突然、体を貫いた。彼女に引き金を引かせてはならない。
「何度やり直したって無駄だ」
「なぜ?」
「俺が間違えるからさ、同じところで」
「救いようのないお馬鹿さんね」
女の寂しげな微笑に男は確信した。彼女はまだ俺を愛している。まだ間に合う――。
「パパ」
娘が顔を出した。
「こっちに来ちゃ駄目だ」
私は少し怖い顔をして娘に言った。
「だって。電話よ」
口を尖らせて娘が言う。
「誰から? ジャックか」
「ジャックだって」
娘はころころと笑いだした。
「誰それ? 編集のTさんよ」
「わかった。いま行く」
「すぐにご飯ですよ」こういう言い方は妻そっくりだ。
「だから、早く来てね」
娘の姿がドアの向こうに消えた。
私はひとつ伸びをして、パソコン画面の原稿を保存した。絶対絶命のジャックの寿命は少し延びたようだ。私は銃口を向けたまま立ち尽くしているヒロインに、しばしの別れを告げた。
(了)