高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 それは、何ですか?/又吉檸檬
又吉檸檬
挨拶を交わすと柔らかい口調でいい感じの人だなと思った。その一秒後、私は、おばあさんの頭から目が離せなくなった。ボブヘアーの頭の上にシイタケがのっていたからだ。
意外な場面に出くわすと心の中で変な声が出る。シイタケを見つけた時は『ひょえ』だった。髪飾りなのかと思った。もう少しちゃんと見てみたい。おばあさんに気づかれないよう後ろを振り向くふりをして、横目で白髪混じりのおばあさんの髪の毛の頂点を視界に入れた。やっぱりシイタケだ。シイタケの傘だけがのっかっている。ウイッグではない。明らかに焦茶色のシイタケなのだ。
あー誰か何か言わないかな。周りを見渡す。真後ろの席に吉田のおじさんがいた。吉田のおじさんは関西出身で歯に絹着せぬ物言いだから、頭の上のシイタケに何かツッコミを入れてくれないだろうか。
私の気持ちと裏腹に吉田のおじさんは配られたプリントをなにやら険しい顔で読んでいる。
「納得いかんな。これは」
何やらブツブツ呟いて顔を上げる気配はない。
会長の前田さんが私の横の通路を通った。おばあさんは前田さんに深々とお辞儀をしているではないか。シイタケの傘は少し動いたものの頭を上げると、また定位置に戻った。あー。私は心中でヒヤヒヤしている。いっそ頭から落ちてくれたら、それは何ですか? とか話しかけられるのに。凝視することも、シイタケについて質問することもできない。もどかしい。もはや、今、私はシイタケのことしか考えられない。この年代の人は食べ物を粗末にするはずがない。故意的に頭に付けるわけない。それならば、なぜ、こんな現象が起きているのか。もしや、おばあさんの家はカビ臭くてシイタケがたまたまおばあさんの頭の上に菌を落とし、繁殖してしまったのだろうか。
会議が始まって小一時間が過ぎたころ、今年の自治会の行事が発表された。花見の会、春の遠足、夏祭りに盆踊り、秋の味覚芋掘り。毎年定番の行事だ。秋の味覚はシイタケもあるんやで。誰に言うわけでもなくシイタケに取り憑かれて脳内の独り言が止まらない。いっそ、ここで、シイタケを狩ってしまいたい。
吉田さんが突然大きな声を出して立ち上がった。
「バスは安全を考えて一つ空きに座るべきです」
吉田さんは、昔に流行った疫病に対しての恐怖心が消えないようだ。いまだにマスクを付ける癖がついている。あー。疫病の名前は何だったかな。世界中を恐怖に追い込んだ病原菌があった頃は、飛沫を恐れて距離を取っていたんだ。
会長の前田さんは落ち着いた声で答えた。
「疫病の時代はとっくに終わっています。費用を抑えて、より多くの方に参加してもらいたい。空席を作ることは無駄でしかない」
二人のやりとりに、やっと頭からシイタケのことが離れた。ふと、横を見るとおばあさんの頭からシイタケがなくなっているではないか。え? どこに落ちたの。床を覗き込んで見たけれど、何も落ちている様子はない。おばあさんの口がモグモグと動いている。まさか、食べたのか。なぜ、その瞬間を見逃してしまったのだろう。余計なことに気を取られている隙に肝心な事を見落とした。後で誰かにおばあさんの素性を確認しよう。ところで、このおばあさんの名前はなんだっけ。
吉田のおじさんがおばあさんの肩を叩いた。
「石井さん、落ちましたよ」
あー。石井さんというのか。石井さんは吉田さんから受け取った物を素早く口の中に放り込んだ。『どひゃー』私は心の声が漏れるのではないかと思った。シイタケと思っていたそれは、裏返すと入れ歯だった。嘘でしょ。さっき、吉田さんが意見を言う為に勢いよく立って、机がおばあさんの背もたれに当たった衝撃で頭の上のそれが落ちたというのか。おばあさんが話しかけてきた。
「今朝、髪に櫛を入れた後、鏡台に置いていた入れ歯が見当たらなかったのよ。吉田さんが見つけてくれたわ。不思議ね」
おばあさんの柔らかだった口調は、ハキハキと滑舌が良くなっている。
前の席からプリントが回ってきた。バス旅行参加者の名前が記入されている。おばあさんも記入した。
『石井武子』横にふりがなが書いてある。イシイタケコ。視界から消えたシイタケはプリントの中で文字になっている。私はおばあさんの名前を一生忘れることはできない。おばあさんの頭にシイタケが無いことを確認しながら後ろへプリントを回した。
(了)