高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 名前と僕と僕の名前/亜凪パピオ
亜凪パピオ
「ん、なんだろう」
安心できる懐かしさとちょっと気味の悪い既視感がまるで接ぎ木に成功して大きく育った松と薔薇のキメラの不自然さと自然さを伴って僕の目の端から入り込み脳に侵入してしばらく神経をふるわせる。だがほどなく僕の目はお目当ての文字のつながりを見つける。なんのことはない。郷里の実家と地番がわずかに違うだけの住所を示す十三の文字のつらなりだった。
「あ、ちょっと驚いたよ」僕は向かいの席にすわっている連れの女に話しかける。
ん? という感じで喫茶店のメニューから顔をあげ僕を半目で見ている彼女に毒のない笑顔を届けてから僕はまたしゃべる。
「ね、ここ見て、これ、死亡広告の四番目」
「なに? 知ってるひと?」
「いや、記憶にない名前だけど、それじゃなくて住所」
「なによ、どこ、それ?」
「僕の実家のすぐ近く。字名(あざめい)までいっしょで、違うのは地番のいちばん下の数字だけ。それも三番しか違わない」
得意になってもしかたがないが僕は無邪気にふるまってみせる。そうする方が彼女がツッコミやすいのではないか(笑)と思って。
「えー? 実家? これどんな新聞? 三番違い? あなたこんなとこ出身なの? なんでこんな地方紙ここにあんの? 家からどのくらい離れているとこなのよ」
まったく彼女は優しく僕をかまってくれるから好きだ。言葉のぞんざいさも、僕の郷里の話などという超(笑)プライベートな話を屈託なく話し、身構えずに聞くためには必要なアイテムだと気づくことができて僕も彼女のおくゆかしさに感動(笑)している。
「三番違いなんだけど、地図上ではすぐとなり、というか真後ろの家なんだよ。地番のつけ方が円を描いているというかジグザグだったか、そんな感じだから」
「なんだ、真後ろ? すぐ近くじゃない。顔見知りなんでしょ、その家の人とも」
「うん。僕と同年代の子どもがいなかったからひんぱんに出入りすることはなかったけど」
「っていうか、なんでこんな地方紙ここにあるの?」
「実は」「なによ、早く」「ここのマスターが」「マスター?」「同じ出身地」「へぇー」「これはほんと偶然」「わざわざ新聞とってるの?」「とりよせているらしい」「マスター故郷を愛しているのね」「僕もそう思った」「あなたは?」「愛してる」「ほんと?」「ほんと」「愛してる?」「愛してる」
「でさ、その亡くなった人、あなた知らないの?」
「この記事に出てる名前はおぼえがないなぁ」
「その年齢でピンとくる人いないの?」
「後ろの家でこの年齢だろうなぁというひとはいるけど、名前が違う」
「そう? 間違って憶えたとかじゃなくて?」
「じゃなくて、全然違う名前」
「ほんと?」
「ほんと」
そのあとしばらくして冬の風が吹き始める頃、僕は彼女を連れて僕の実家に行った。本来の目的は別にあったけどそれはつつがなく済んだから、ついでに後ろの家の住所の死亡広告について母に尋ねた。やはり亡くなった人は私の知っているその人だった、と母は言う。
「でも母さん、新聞に載っていた名前が違ってたよ」
「ああ、それは」母は目を閉じ、また開いてこたつの上掛けの模様を見ながら言った。「ホンの名だよ」
「ホンの名?」
「ほんとうの名前っていうことさ。おまえの知っている名前は『通り名』といってあだ名みたいなもんさ。昔、ここらへんの男はホンの名と通り名と二つの名を持っていて、自分と周りの人が知っているのは通り名の方さ」
「ホンの名は何? 自分は知らないの?」
「ホンの名は支配される名で、だから死亡広告はホンの名で出さないと意味がない。ホンの名は本人は知らない。支配ということはそういうもんさ。生きているひとのホンの名はその親と奥さんしか知らないよ」
僕にホンの名があるかどうかは聞きそびれたけど、連れの彼女はますますキレイになり、あと半年で僕の妻になる予定だ。
名前と身体の結びつきは自然でありながら不自然にも思える。そんな人としての生を全うするためには、誰かに支配されるのもしかたのないことかもしれない。
(了)