高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 十分な休息は、命の砦/花るんるん
花るんるん
隊長、隊長とやかましい。
叩き起こされるのが私だけならまだいい(私は立場上、やむを得ない)のだが、これでは隊員が皆起きてしまうではないか。十分な休息は、命の砦なのに。
「隊長」
「隊長、隊長」
「隊長、隊長、隊長」
何だ。
「隊長、ウンコをください」
え?
「隊長、ハンコをください」
え?
「隊長、敵兵らしき物音です」
そうだよな。
(敵兵かもしれない一大事に、にやにや笑っている……)
(無理もない、隊長はたいへんお疲れなのだ……)
たいへんでしたね、本物の隊長。
私はもともと、隊長なんかではなかった。本物の隊長は、森へ探索に行って戻ってこないままだ。ただ、探索に行く前に、臨時の指揮を任されたにすぎない。それからもう、ずいぶん月日が経つ。
「本物の隊長って、何ですか」
人間は、薄情なものだ。本物の隊長のことなど、すっかり忘れている。部下も限界だ。あの命がけで隊を守ってくれた本物の隊長のことを忘れてしまうとは。本物の隊長が戻ってこないのがよほどショックだったのだろう。「無かったことにしたい」のも、無理もない。私だって、そうだ。
あの繁みの向こうに、敵がいるのか、動物がいるのか、本物の隊長がいるのか、味方の救助隊がいるのか、何もいないのか分からない。分からないことは悩むべきことではなく、私の所与の条件にすぎない。
よし、私が見に行こう。
「え?」
ここで、待っていろ。
「自分が行きます」
命令だ。ここにいろ。
「戻ってきますよね?」
ああ、戻ってくるつもりだが、ここは戦場だ。約束はできない。いいだろう、私のような無能な隊長がいなくなったって、君のような優秀な者がいれば。
「だめです。隊長がいないと困るんです。必ず戻ってきてください」
なぜ自分が偵察に行く気になったのか分からない。たぶん自棄になったのだろう。
満天の星空だった。海のさざ波が優しく聞こえる。不思議なことにどこまで歩いても、音のした繁みには辿りつかない。
やはり自棄になるくらい、私は疲れている。何もかもが幻に感じられる。
「交通費の決裁、お願いします」
若い女性社員にニコニコとそう言われて、ハンコを押しているのが、本当の自分なのではないか。
「気のせいだ」と本物の隊長は言った。「ここは戦場で、自分は死んでいて、君は敵兵に向かっている。真実を見失ってはいけない」
「気のせいですよ」と社員は言った。「ここは会社で、早く交通費の決裁をしてくれないと困るんです」
「必ず戻ってきてくださいね」と部下は言った。「必ず、必ずですよ」
すいません。あなたの名前、教えてもらえませんか。
「そんなことも……」
そして、私は全員に呆れられる。
「隊長」
「隊長、隊長」
「隊長、隊長、隊長」
何だ、夢か……。
「早く交通費の決裁をしてください」
「そうだ、できる限り早くだ」と本物の隊長は言った。「事態は刻一刻と変化する。上に立つ者、何事も即断だ」
そうだ、何事も即断だ。私はかつて、大企業の係長で交通費の決裁をしていた。それを徴兵され、隊長として名も無き部隊を任され、島に派遣された。本物の隊長などいない。私の妄想にすぎない。繁みに辿りつかないのも当然だ。私は逃げているのだから。今、隊員がどれだけ残っているのかも分からない。きっと、そうだ。
「お願いですから、必ず戻ってきてください。必ず、必ずですよ」
誰?
「やっぱり一夜限りだと思って、名前も覚えてくれてないのね。わたしは本気なのに」
名前、教えてもらえませんか。
「マリ。もう忘れないで」
久々に隊に戻った本物の隊長は思う。
ああ、私の隊だけは。
私の隊だけは安全だ。
(了)