高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 こんなちかくに/獏太郎
獏太郎
三年前はまだ歩けていたが、今は車いす生活だ。転倒して骨折したことが原因だった。歩けなくなった幸子は、口数も減ってしまった。それでも時々、誰に言うでもなく、愚痴ることがある。
「一番好きやった上のお兄ちゃんは、職場の屋上から飛び降りて死んでしもたしなぁ」
職場など縁のある場所で自殺するのは、よほどの恨みがあるからだと、どこかで聞いたことがある。愚痴った後で、幸子は自分の名前の話になってしまう。
「〈幸子〉って名前やけど幸せなことないしなぁ」
誰とも視線を合わせず、つま先の少し先を見ながら、淡々と言葉を繰り返すばかりだ。
兄の次は、弟の話になる。お決まりのコースだ。
「私が四十年近く勤めて定年退職した後でもろた退職金、一番下の弟が言葉巧みにだまし取った。あんだけあったら、あの人との老後の生活費になったのになぁ」
そんな弟は、昨年アルコール中毒で急死した。最愛の人生のパートナーは、十年前に他界している。八十八歳になった幸子は、ひとりぼっちになっていた。
「親は幸せになれると思ってつけたんやで。でも結果はこんなんや。幸せなんて、どこにもないんやな」
そういえば、幸子さんの笑顔を、一度も見たことがなかったわ、ウチ。背中を丸めて、うつむき加減で言葉を吐き出す幸子を見ながら、ちひろは改めて思った。
ちひろが施設にやって来て五年目に、幸子に異変が見られた。そう遠くない時期に……。独居の幸子がひとりで逝くのはさみしいだろうということで、施設で最期の日まで宿泊となった。
ある日、幸子は便箋と鉛筆を持って来てほしいと、小さな声でちひろに言った。早速、ちひろは便箋を買いに走った。果たして、最後に何を伝えたいのか。
翌日から、幸子は横を向きながら、便箋に何かを書き始めた。もう、文字を書くことも辛いだろうに。ちひろが幸子のベッドサイドにしゃがんだ。
「何を書いてるん?」
「ナイショ、や」
ベッドの近くには、くしゃくしゃに丸められた便箋が、いくつも落ちている。ちひろは文章を確認することなく、見つけてはゴミ箱へ入れていった。震える手で、幸子は何かを伝えようとしていた。
ある日のこと、ふいに幸子と目が合った。幸子は四つに折られた便箋を差し出した。
「ねえさん、に、あげるわ」
「読んでもええの?」
幸子が、ふっと笑った。
「ウチが……死んだら、や」
ちひろは、返事が出来なかった。
手紙を受け取って一週間後、幸子は明け方に、静かに施設で息を引き取った。スタッフは順番に、物言わぬ幸子にねぎらいの言葉をかけた。葬儀社のストレッチャーに乗せられて、幸子は施設を去った。
ちひろは休憩室に行き、幸子から渡された便箋を開いた。ミミズが這ったような、とはこういうことを言うのだろう。薄い文字並んでいる。少し読んでは、何を書いているのか考えながら、文字を追った。そんなことを繰り返して、最後まで読み切るまでに、三十分以上かかった。読み終えると、頬にしずくが伝っていた。
〈なまえまけ してる としをとってから いつもそうおもってた けど ちがうって わかった うちのことを せわしてくれるヘルパーさんから たくさん しあわせを もらってるって きづいた こんなちかくに しあわせはあったんや とくに ねえさんには せわになった いっしょう わすれへん ありがとう〉
ちひろは、涙を止められなかった。
この手紙を完成させてから一週間で、幸子は旅立った。そんな幸子からの〈いっしょう わすれへん〉という言葉は、細く鋭い痛みが、心を通り抜けた。ちひろは、うずくまって嗚咽した。
幸子の顔は、本当に穏やかだった。
(了)