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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 こんなちかくに/獏太郎

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小説でもどうぞ

第2回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

こんなちかくに
獏太郎

 理不尽なリストラをされ、介護職に転職して一年になる高野ちひろが勤務する高齢者施設へ〈幸子〉がやって来たのは、三年前のことだった。やって来た当時を知るスタッフによれば、口を開けば愚痴ばかりで、ムッとした表情しか印象にないらしい。兄が二人、弟が二人いて、唯一の女の子だったそうだ。なぜか、ちひろのことを気に入って、よく〈ねえさん〉と呼んでくれた。

 三年前はまだ歩けていたが、今は車いす生活だ。転倒して骨折したことが原因だった。歩けなくなった幸子は、口数も減ってしまった。それでも時々、誰に言うでもなく、愚痴ることがある。

「一番好きやった上のお兄ちゃんは、職場の屋上から飛び降りて死んでしもたしなぁ」

 職場など縁のある場所で自殺するのは、よほどの恨みがあるからだと、どこかで聞いたことがある。愚痴った後で、幸子は自分の名前の話になってしまう。

「〈幸子〉って名前やけど幸せなことないしなぁ」

 誰とも視線を合わせず、つま先の少し先を見ながら、淡々と言葉を繰り返すばかりだ。

 兄の次は、弟の話になる。お決まりのコースだ。

「私が四十年近く勤めて定年退職した後でもろた退職金、一番下の弟が言葉巧みにだまし取った。あんだけあったら、あの人との老後の生活費になったのになぁ」

 そんな弟は、昨年アルコール中毒で急死した。最愛の人生のパートナーは、十年前に他界している。八十八歳になった幸子は、ひとりぼっちになっていた。

「親は幸せになれると思ってつけたんやで。でも結果はこんなんや。幸せなんて、どこにもないんやな」

 そういえば、幸子さんの笑顔を、一度も見たことがなかったわ、ウチ。背中を丸めて、うつむき加減で言葉を吐き出す幸子を見ながら、ちひろは改めて思った。

 ちひろが施設にやって来て五年目に、幸子に異変が見られた。そう遠くない時期に……。独居の幸子がひとりで逝くのはさみしいだろうということで、施設で最期の日まで宿泊となった。

 ある日、幸子は便箋と鉛筆を持って来てほしいと、小さな声でちひろに言った。早速、ちひろは便箋を買いに走った。果たして、最後に何を伝えたいのか。

 翌日から、幸子は横を向きながら、便箋に何かを書き始めた。もう、文字を書くことも辛いだろうに。ちひろが幸子のベッドサイドにしゃがんだ。

「何を書いてるん?」

「ナイショ、や」

 ベッドの近くには、くしゃくしゃに丸められた便箋が、いくつも落ちている。ちひろは文章を確認することなく、見つけてはゴミ箱へ入れていった。震える手で、幸子は何かを伝えようとしていた。

 ある日のこと、ふいに幸子と目が合った。幸子は四つに折られた便箋を差し出した。

「ねえさん、に、あげるわ」

「読んでもええの?」

 幸子が、ふっと笑った。

「ウチが……死んだら、や」

 ちひろは、返事が出来なかった。

 手紙を受け取って一週間後、幸子は明け方に、静かに施設で息を引き取った。スタッフは順番に、物言わぬ幸子にねぎらいの言葉をかけた。葬儀社のストレッチャーに乗せられて、幸子は施設を去った。

 ちひろは休憩室に行き、幸子から渡された便箋を開いた。ミミズが這ったような、とはこういうことを言うのだろう。薄い文字並んでいる。少し読んでは、何を書いているのか考えながら、文字を追った。そんなことを繰り返して、最後まで読み切るまでに、三十分以上かかった。読み終えると、頬にしずくが伝っていた。

〈なまえまけ してる としをとってから いつもそうおもってた けど ちがうって わかった うちのことを せわしてくれるヘルパーさんから たくさん しあわせを もらってるって きづいた こんなちかくに しあわせはあったんや とくに ねえさんには せわになった いっしょう わすれへん ありがとう〉

 ちひろは、涙を止められなかった。

 この手紙を完成させてから一週間で、幸子は旅立った。そんな幸子からの〈いっしょう わすれへん〉という言葉は、細く鋭い痛みが、心を通り抜けた。ちひろは、うずくまって嗚咽した。

 幸子の顔は、本当に穏やかだった。

(了)