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高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」佳作 あなたの名前/フサノユメコ

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小説でもどうぞ

第2回 高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」 佳作

あなたの名前
フサノユメコ

 雑草は小さなうちにすぐ取りなさいと義母はよく言って居た。春にきれいにしても夏場は成長が早く、元の木阿弥になってしまう。四十年以上同じような繰り返しの中、私もとうとう六十代になった。草の成長が早く手が回らなくなると、精神的に追い詰められる気がしてくる。夢の中まで蔓が手足を這い鎌を手にして必死で蔓を切る。目が覚めた時、ぐっしょり寝汗をかいて居た。

 とうとう脳の中まで蔓に侵された気がしたのは、主人の名前を思い出せなくなったことです。なんて言う名前だったかしら……。そんな時は、保険証をこっそり見て、小宮勝彦だと認識するのだけれど、保険証をしまった途端に忘れてしまう。普段主人のことをあなたと呼ぶから、私が名前を忘れてしまったことは知られて居ないし、とても打ち明けることは出来なかった。

 近所の石川さんのおばあちゃんは二十三人も居る孫の名前をど忘れしていて、誰の子どもか、何番かを聞いて、一応思い出すが、次の機会に会う時にはすっかり忘れている。二十三人も居ればその状態も仕方ないけれど、私の場合は、たった一人の長年連れ添った主人の名前を忘れたのだった。

 暑い最中、噴霧器は体に堪えた。若い時も流石に肩に食い込む重さはきつかった。しかし、若い時は回復力があり、どんどん仕事をしたものだ。あれから、四十年の月日が経ち、未だに草に支配されている。草が絶滅すればいいのにとまで思っている。暑くて暑くてもうだめだと思った時、私は意識を失っていた。気がついた時はあの世で体は軽くなっていた。

 あの世って所は、草取りなんてしなくて、池の鯉に餌を与えて、のんびり過ごすことの出来る所だった。私が生前、のんびり過ごしたいとずっと願って来たことを死んでから希望が叶った。池の周りを歩いていると金色の鯉が高くジャンプして、ポチャンと音をたてた。あれから月日はどれくらい経ったのだろう。一生なんてあっと言う間だと思った時、

「そろそろお迎えの準備を」

 鯉は口をパクパクして言った。

 私は門番に、主人が危篤ですぐに迎えに行く旨を伝えると

「ご主人の、生年月日と、名前は?」

「生年月日は覚えています。名前はどうしても思い出せません」

「ご主人の名前を忘れるなんて聞いたことないぞ」

「確か……ツルヘイだったような」

 ブッブー。ブザーが鳴り響き

「出鱈目を言うな。この門は開かないぞ」

「そんな、迎えに行ってやらねばならないのに……お願いします。開けてください」

 考えても考えても名前は出て来なかった。名前はいかに大切であることを思い知った。主人がどうなってしまったかわからないままでいた。池の縁で涙が溢れると、白い光が私の隣で、鯉を見ながら言った。

「どうかしましたか?」

「はい、主人が危篤なのに名前を忘れてしまって、迎えに行けないんです」

「そうですか、こちらに来る途中で忘れてしまったの?」

「いいえ、その前からです。主人は知りません。とても言えませんでした」

 白い光は良い方法があると言った。

「名前を思い出したければ、貴女の無駄な記憶を無くすことです」

「どうやってやるんですか?」

「頭の中にあるものを取り出していきます。私は物忘れがあると、そうして思い出していましたからね」

「本当に?」

「大丈夫ですよ」

 私は目を瞑り、深呼吸をして、池のほとりに腰を掛けると白い光は私の額を照らした。頭の中で何が起こっているのか? 灼熱の太陽の下にいるようで酷い頭痛に襲われた。

「雑草がすごいね、蔓性の。取り出して見よう」

 ヤブガラシやクズの葉が絡み合いながらずるずると引き出され、池の周りは蔓でいっぱいになった。

「天国に草が生えたら私のせいね」

「これで名前が出てくるから大丈夫です」

 白い光は笑った。

「私はまだ旅の途中です。そろそろ行かないと。またいつかどこかで」

「あの、ありがとうございます。お名前だけでも教えていただけないでしょうか?」

「私の名前は、小宮勝彦です」

 白い光は水面にキラキラ揺れながら手を振るように遠ざかって行った。

(了)