第4回「小説でもどうぞ」選外佳作 郷里霧中/大西洋子
第4回結果発表
課 題
記憶
※応募数292編
選外佳作「郷里霧中」大西洋子
遅い日の出は深い霧を連れてきた。そのため、電車はゆるゆるとしか進まない。到着時間が遅れているというテロップが繰り返し流れている。
(どうして、布団に入るときに携帯を見なかったのだろうか。いや、そのまえに、なぜ着信音を無音にしていたのだろうか)
正俊は悔やむ。いつものように酒を呑みながらテレビを見、そのまま寝落ちし、深夜過ぎに目覚めてテレビを消し、布団に入り直してそのまま朝まで熟睡。
――おふくろが危篤。
正俊がそれを知ったのは、ふと目覚め、携帯画面で、現在の時刻を知ろうとしたその時だ。
急ぎ家を出、始発の新幹線に乗り込んだ時は、まだ夜も明けておらず、車窓からだんだん明るくなる空に祈りを重ねていた。
やがて朝日が昇り、トンネルを抜けたその先は、霧、霧、霧…… 新幹線から普通電車に乗り換えても、ずっとその場所で走っているような、そんな感覚を覚えてしまう。踏切の音、列車の走行音からして、確実に前に進んでいるのは確かなのだが。
「正俊さん、正俊さん」
自分の名を呼ぶ声にふりかえる。中年、いや初老間近の女がそこにいた。
「静香?」
いや、違う。
「誰だ?」
「正俊さん、わたしは、……園で働く山川ですよ。 準備が整いました。どうぞこちらへ」
……園? するとここは、おふくろを預けた老人ホームか。正俊は立ち上がり、移動しようとして気づく。
「俺のボストンバッグはどこだ?」
あの中には、現金に通帳をはじめ、家の権利証などが入っていた。まさか盗られた?
山川が落ち着くようにと繰り返す声が、正俊に妻の静香と別れたときの記憶を呼び覚まし、そこへと正俊を引きずり込む。
(――もう、無理です)
保安灯の下で静香が消え入りそうな声で告げる。まるでテレビドラマか映画の一場面のようだ。だが、それは変えようがない事実であり……
(財布を入れた鞄が見つからない。自分の通帳を奪われた。自分が嫁いだ家を潰すつもりなのか。……お義母さまに悪者扱いされて限界です)
故郷で独り暮らしていたおふくろが骨折し治ったものの、身の回りのあれこれが大変だと言われ、正俊が住むこちらに呼び寄せた。
だが、こちらに移ってから、おふくろの記憶が混濁することが多くなり……
子どもたちは皆家を出、それぞれの場所で暮らすようになり、ある夜、妻から突きつけられた離婚届。
それは、平穏のまま、静香と最期の時まで過ごせたらと願った日々が砕け散った瞬間でもあり、同時に己の最期の時を過ごし方を決めるきっかけになった。
「……正俊さん、落ち着いてください。ここは……園で、あなたはこれから朝ご飯を食べに、食堂へ移動するところですよ」
山川の宥める声で、次第に過去の記憶の混濁から現在へと引き戻される。
くぅぅ、正俊の腹がなり、その音は正俊に別の記憶を呼び覚ます合図となった。
(正俊、ちゃんとご飯食べているの?)
折りたたみの携帯越しにおふくろの声。ちっとも連絡をよこさないという愚痴と共に、何度も繰り返されたその言葉。
ああ、まだ朝ご飯を食べていなかった。ちゃんとご飯食べないとおふくろが心配する。ご飯を食べよう。それも、栄養バランスがとれたものを。
胃袋が早くと急かす。正俊はようやく気づく。窓の外から見える霧は電車の中から見た風景ではなく老人ホームからだと。そして、利用者はおふくろではなく正俊本人だと。別れた妻、独立した我が子らに、己のおふくろの時に味わった再び同じ苦しみをさせたくないと、自ら決めた最期を。
「ああ、山川さん、今朝の朝ご飯は、なにですか?」
「今朝は出汁巻きに、ジャコおろし、それに小松菜のお浸しですよ」
「朝からごちそうだね」
先程まで怒り荒げた声から、凪のような穏やかな話し方に、周りから安堵のため息が漏れた。
窓の外は深い霧に包まれ、ニキロ先の踏切の音とそこを通り抜ける電車が、ここまで聞こえてくる。
雨足が近づくたび、終の棲家である老人ホームまでその音が届くそのたび、正俊はやり直したくてもやり直せない過去の記憶を呼び覚まし、記憶の中の郷里へと迷い込む。
(了)
(どうして、布団に入るときに携帯を見なかったのだろうか。いや、そのまえに、なぜ着信音を無音にしていたのだろうか)
正俊は悔やむ。いつものように酒を呑みながらテレビを見、そのまま寝落ちし、深夜過ぎに目覚めてテレビを消し、布団に入り直してそのまま朝まで熟睡。
――おふくろが危篤。
正俊がそれを知ったのは、ふと目覚め、携帯画面で、現在の時刻を知ろうとしたその時だ。
急ぎ家を出、始発の新幹線に乗り込んだ時は、まだ夜も明けておらず、車窓からだんだん明るくなる空に祈りを重ねていた。
やがて朝日が昇り、トンネルを抜けたその先は、霧、霧、霧…… 新幹線から普通電車に乗り換えても、ずっとその場所で走っているような、そんな感覚を覚えてしまう。踏切の音、列車の走行音からして、確実に前に進んでいるのは確かなのだが。
「正俊さん、正俊さん」
自分の名を呼ぶ声にふりかえる。中年、いや初老間近の女がそこにいた。
「静香?」
いや、違う。
「誰だ?」
「正俊さん、わたしは、……園で働く山川ですよ。 準備が整いました。どうぞこちらへ」
……園? するとここは、おふくろを預けた老人ホームか。正俊は立ち上がり、移動しようとして気づく。
「俺のボストンバッグはどこだ?」
あの中には、現金に通帳をはじめ、家の権利証などが入っていた。まさか盗られた?
山川が落ち着くようにと繰り返す声が、正俊に妻の静香と別れたときの記憶を呼び覚まし、そこへと正俊を引きずり込む。
(――もう、無理です)
保安灯の下で静香が消え入りそうな声で告げる。まるでテレビドラマか映画の一場面のようだ。だが、それは変えようがない事実であり……
(財布を入れた鞄が見つからない。自分の通帳を奪われた。自分が嫁いだ家を潰すつもりなのか。……お義母さまに悪者扱いされて限界です)
故郷で独り暮らしていたおふくろが骨折し治ったものの、身の回りのあれこれが大変だと言われ、正俊が住むこちらに呼び寄せた。
だが、こちらに移ってから、おふくろの記憶が混濁することが多くなり……
子どもたちは皆家を出、それぞれの場所で暮らすようになり、ある夜、妻から突きつけられた離婚届。
それは、平穏のまま、静香と最期の時まで過ごせたらと願った日々が砕け散った瞬間でもあり、同時に己の最期の時を過ごし方を決めるきっかけになった。
「……正俊さん、落ち着いてください。ここは……園で、あなたはこれから朝ご飯を食べに、食堂へ移動するところですよ」
山川の宥める声で、次第に過去の記憶の混濁から現在へと引き戻される。
くぅぅ、正俊の腹がなり、その音は正俊に別の記憶を呼び覚ます合図となった。
(正俊、ちゃんとご飯食べているの?)
折りたたみの携帯越しにおふくろの声。ちっとも連絡をよこさないという愚痴と共に、何度も繰り返されたその言葉。
ああ、まだ朝ご飯を食べていなかった。ちゃんとご飯食べないとおふくろが心配する。ご飯を食べよう。それも、栄養バランスがとれたものを。
胃袋が早くと急かす。正俊はようやく気づく。窓の外から見える霧は電車の中から見た風景ではなく老人ホームからだと。そして、利用者はおふくろではなく正俊本人だと。別れた妻、独立した我が子らに、己のおふくろの時に味わった再び同じ苦しみをさせたくないと、自ら決めた最期を。
「ああ、山川さん、今朝の朝ご飯は、なにですか?」
「今朝は出汁巻きに、ジャコおろし、それに小松菜のお浸しですよ」
「朝からごちそうだね」
先程まで怒り荒げた声から、凪のような穏やかな話し方に、周りから安堵のため息が漏れた。
窓の外は深い霧に包まれ、ニキロ先の踏切の音とそこを通り抜ける電車が、ここまで聞こえてくる。
雨足が近づくたび、終の棲家である老人ホームまでその音が届くそのたび、正俊はやり直したくてもやり直せない過去の記憶を呼び覚まし、記憶の中の郷里へと迷い込む。
(了)