高橋源一郎の小説指南「小説でもどうぞ」選外佳作 ちょっとそこまで/松田智恵
松田智恵
「後日確認し、また連絡します」
まだまだ経験の浅そうな彼の慌てぶりから折り返しは期待出来ないだろうと、二、三日後にこちらから連絡を入れるかと思いながら通話を終わらせた。スケジュールと同じように、僕の中にも空白が生まれた。
そんなことはどうでも良い。昨日の今日で休みになったと言われても、次の予定なんてすぐには埋まらない。フリーでルポライターをしている自称仕事人間の僕には、一週間の休みというのは拷問に等しい。
同居する家族も居なければ、誘いにすぐ応じてくれる友達もいない。少なくとも今日明日は一人の時間を持て余すしかない。
昼飯までにはまだ時間があった。一週間は留守にするので、数日前から調整して冷蔵庫の中にはろくな食材がなかった。と言っても、常備しているのは卵や牛乳ぐらいなもので、あとは好物のちくわやかまぼこなどの練り物だけ。いつもは暇がなくてなかなか行けない大型書店を探索して、どこかで昼飯を食おう。財布と携帯だけ手に取って部屋を出た。
まず向かった書店で、さらっと見るだけのつもりだった雑誌コーナーに捕まった。普段はお目当てのものだけ買って帰るのだが、一冊一冊を注意深く見ていると気になるタイトルがずらりと並ぶ。軽い気持ちで開いたグルメ情報誌に紹介された写真を見ていたら、急に腹が減ってきた。その中に、数ヶ月前に取材させてもらったラーメン屋を見つけた。そこに載る写真はその時食べた一番人気の塩ラーメン。美味かった。美味かったけど、みそラーメンが食べたかった僕としては消化不良だった。とはいえ仕方ない。取材対象が決まっていたのだから。
リベンジとばかり店に向かったが、移動に時間が掛かり着いた頃にはとっくに昼時を過ぎていた。しかし店内はまだまだ混んでいて、仕事中ならばその足で回れ右のところだが、今日は閉店までだって待てると、空いていた奥のカウンター席を見つけて座った。さらに普段は見向きもしない、横に重ねてあった新聞を広げて見出しや目についた広告を眺めながらページを繰った。
一枚の白黒写真に目が留まった。小さく書かれた見出しを見ると、前に一度だけ仕事をしたことのある写真家の個展が開催中との記事だった。年齢は僕の父親ぐらい。自分が旅をしているような写真を撮ることが信条で、桜や紅葉をバックにお城や神社仏閣を撮れば、建物や景色を見せるというよりは撮影者の目線で見たいものを撮るという人だった。これは構図的にどうだろうと思うものも中にはあったが、そこに味わいがあるのだろうと、写真について知識に乏しい僕には到底解けない謎だった。
彼の作品は好きだし、知人の個展に行く機会なんてそう滅多にあるものではない。これも何かの縁と、食事を済ませてギャラリーへ向かった。
平日の夕方は訪れる客も少なかった。彼は今日外せない用で出ていて不在だと、受付で聞いた。新人のライターのことなんてきっと憶えていないだろうから良かったと自身に言い聞かせた。一通り見終わった後、入ってすぐの目立つ場所にある野天風呂の写真の前まで戻った。わずかに立ち上る湯気と、背景の新緑の木々。これから風呂につかろうかというアングル。
「秋保温泉。……仙台か」
タイトルの『故郷・秋保温泉』を見て呟きが漏れた。秋保温泉といえば宮城県仙台。仙台といえば、
「笹かま食べたいなぁ……」
まだ腹はいっぱいだったが、僕にとって練り物は、女性のスイーツと同じで別腹だった。
(ちょっとそこまでのつもりが、ずい分遠くへ来てしまったなぁ……)
移動の電車内でネットを使い宿を調べて押さえたが、今夜泊まる宿を数時間前に予約するなんて初めての経験だった。
「それでは後程、お待ちしております」
フロント係のその声を聞くまでドキドキが止まらなかった。
駅のホームに降り立つと、身震いするほどの強い風が僕を歓迎してくれた。降りたのは僕と年配の男性の二人。外はもうすっかり闇に包まれていた。
何はなくとも上着と替えの下着を買わなければならない。普段は留めない、シャツの一番上のボタンを留めた。
「もしかして佐藤くんじゃないか?」
声を掛けてきた年配の男性に視線を向けた。
(了)