月に向かって吠えろ
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月に向かって
吠えろ
山﨑里子
夜明け前。オレは独り、けものみちを駆けていた。群れの掟で、越えてはならないと厳しく禁じられていた峠の一線を越えたとき、体がこわばるのを感じた。後戻りはできない。振り返らず、一気に駆けた。
突然、足に激痛が走り、そのまま倒れ込んだ。罠だ。
(ちくしょう!)
長い時間痛みにもがき、うずくまっていると、ふいにガサガサっと何かが動く気配がした。オレは息をひそめ、身を固くした。
「ドジ踏んだようだな、若いの」
現れたのは、年寄りのオオカミだった。そしてつかつかとオレに近づき、手際よく足に食い込んだ金属の罠を外してくれた。
「おめえ、どこの群れのもんだ? こんなところまで下りてきたら、人間にやられちまうぜ」
オレはムッとして、反射的に吠えた。
「大きなお世話だ!」
「ごあいさつだな、助けてやったのによ」
言いながら、年寄りは草むらに寝転んだ。
「オラあ、群れなんざもうコリゴリなんだ。くだらねえ掟ばかりでよ。何一つ思い通りにならねえ。ばかばかしくてよ。だからオレは、オレの才覚で生きてやろうと思って、今朝群れを出てきたんだ。まあ、とっつあんの言うように、早速ドジ踏んじまったがよ……。さっきは悪かったよ。本当に、恩に着るぜ」
「ああ」
とっつあんは生返事をした。
「ところで、とっつあんこそ、どこから来たんだよ。里の方から来たのかい?」
「動物園だ」
こともなげに、とっつあんは言った。
「動物園! 動物園から逃げてきたのかい?」
「まあ、そんなとこだ」
「こいつあ驚いた。動物園てのは、そらあ恐ろしいところだって聞いたことがあるが、実際に話を聞くのは初めてだ。なあ、どんなところなんだい、動物園てのは」
興奮で、さっきまでの痛みは吹っ飛んだ。
「人間てのは、ひでえ生き物だぜ」
寝転びながら、とっつあんは語りだした。
「世界中から動物をさらってきては檻に閉じ込めてよ、銭取って見世物にするんだ。見に来る客ってのは、親子連れが多くてな、囚われ者のオレたちをガキに見せて喜んでんだぜ。オラあ、十年もそんなところにいたんだ。もう飽き飽きしてよ、死ぬ前にもういっぺん生まれ故郷の山の空気が吸いてえと思って、今朝出てきたわけよ」
オレはとっつあんの話に聞き入った。
「すげえ。すげえな、まったく」
遠くで、何かうなるような音が聞こえた。
「来たようだな」
とっつあんは静かに言った。
「来たって、何が」
「動物園の人間さ。オレを連れ戻しに来たんだ。あれは自動車のエンジンの音だ」
「大変じゃねえか。早く逃げねえと」
だが、とっつあんは落ち着いていた。
「オラあ、帰るよ」
言いながら、とっつあんはゆっくりと起き上がり、大きく深呼吸をした。
「ああ、うめえ。山の空気はうめえなあ」
「帰るって、動物園に帰る気かよ。せっかく逃げてきたのに。やっと自由になるんじゃねえか」
とっつあんは苦笑いした。
「さっき動物園をひでえところだと言ったがな、それは表向きの話で、実際中に入ってみると、そう悪くもねえんだ。動物園に勤める人間てのはたいがい気のいいやつでな、オレたちの面倒をよくみてくれるんだ。エサもいろいろ工夫してくれてな。オレたちはただ口開けて待ってりゃいいんだ。こんな楽な商売はねえぜ。だからこっちもよ、日曜の客の多い日にゃ、サービスで遠吠えしてやったりするんだ。ガキが泣いて喜ぶんだぜ、へへ」
とっつあんは、十年の間にすっかり動物園のオオカミになっていたようだ。
「なあ、とっつあん。オレと一緒に暮らさねえか。なあに、とっつあんを養うくらい、わけねえよ。だからよ、動物園に帰るなんて言うなよ。な、とっつあん」
とっつあんは、ちょっとはにかんだ。
「ありがとよ。けどな、オレはもう、山の中で雨風に打たれるような暮らしはできねえ体になっちまったんだ。おめえこそ、群れに帰りな。独りで生きてくのはキツイぜ」
とっつあんは、動物園の人間の元へ走って行き、用意されていた檻の中に自ら入った。車は走り去った。
オレは、しばらく呆然と立ち尽くしていた。いつの間にかあたりは真っ暗になり、月が出ていた。腹が鳴った。朝から何も食っていないことに気づいた。
(今頃群れの連中は、またつまらないことでケンカでもしてるんだろうか。あのとっつあんは、動物園の檻の中で、与えられた餌を食って寝てるんだろうか。そしてオレは……)
「ワオオオオオオオオオオーーーーーーン」
オレは月に向かって思いきり吠えた。目から涙が溢れた。月の光がまぶしかった。