ソウルメイト
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冬木舞
愁と私は、デパートの屋上で出会った。大きなゲージの中で、兄弟五人、ピーピー泣いていた。近づいた私を見上げた大きな瞳、すっと通った高い鼻筋。私の好みのアメリカンショートヘアとのハーフ顔は、抱き上げるとほほえんだ。昔からの知り合いのように……。迷子が母親を見つけたときのように……。手のひらにすっぽり収まるほど小さかった。一人では寂しいだろうと思い、ひと回り大きな長男らしい子も一緒に連れて帰った。
六歳のとき、愁は急に、三日ほど便が出なくなった。病院から薬をもらい、飲ませたが、一向によくならなかった。すると先生はあっさり、
「巨大結腸症です」と無関係かのように言い放った。
巨大結腸症とは、大腸に異常な拡張部分があり、便がたまるため、頑固な便通困難が起こる疾患で、便を出すには開腹手術しかないが、摘出する腸の長さはいくらでもないので、簡単な手術で、通常生活にすぐ戻れるという話だった。
しかし、その結果、愁は二カ月半もの間、入院しなくてはならず、その間に三回も手術をされた。三度目の手術の前には、人工肛門にするしかないと宣告された。二カ月目には、何も食べられなくなり、そのうえ、血管がもろくなったため点滴さえ入れられなくなった。顔の大きさはそれほど変わらないが、胴体はペチャンコで、まるでボロ雑巾のようであった。右足は根元から皮膚が裂けたままで、筋肉が見えていた。生きているのが信じられない状態だった。もう、頭を持ち上げる力もなくなったとき、退院させられた。治療費は百七十万のところ、値下げして百五十万にしてくれた。死亡するにちがいないと思い、訴えられる可能性を減らしたかったのが見え見えだった。
それからの自宅療養が地獄だった。病院からもらった薬では全然下痢が止まらないので、私の整腸剤と、富山の置き薬の赤玉はら薬を飲ませてみた。二時間ごとにアラームをかけ、薬の量を調節した。消化を良くするためにスプーンですりつぶした一種類の缶詰めをほんの少量しか食べさせられなかった。それでも下痢は続き、お腹にあいた穴から、水のような便が流れた。赤玉はら薬の量をどんどん増やして成人量となったときには、ご飯が、色あざやかな糖衣菓子をトッピングしたデコレーションケーキみたいになった。
愁もそんなご飯がほとほと嫌になった。口に入れた薬を十分以上も舌の下に入れておき、私が後ろを向いた隙を盗んで、顔を上手に左右に振って、プップップッと薬だけを出す特技を身につけた。
「この薬を飲まないと死んじゃうのよ。お願いだから飲んで」
と、泣きながら言いきかせた。
退院から三年も過ぎてやっと、少しずつ便が固まり始めた。食事制限と薬の調節の賜物だった。症状がおちついて、人工肛門から鹿のウンチのような、いちじくのドライフルーツのようなウンチがポロッと出るようになっても、そのたびにビクッと全身を振わせて驚いていた。
走ることができなくなり、二階にもほとんど上がれなくなった。毎日、私の膝の上で生活するようになった。だっこして過ごすのが好きだった。傷跡を見れば、どんなに痛いか、つらいか、誰にでも想像がつく。しかし、愁は痛みやつらさ、絶望を見せず、必死に生きようとしてくれた。
十五歳になり、愁の兄は難治性下痢が治らず、通院も空しく他界した。愁は仲が良かったので、毎日毎日、兄を探し続けていた。そして一カ月が経ち、もう帰ってこないのを覚った。
ある朝、少し息が苦しそうなので、一応、病院に連れていった。
精密検査の結果は、なんと肺癌だった。こんなに元気なのに、もういつ死んでもおかしくはないそうだ。手術するしかないが、十六歳という高齢なので、全身麻痺は危険でできないということだった。治療法は全くなく、自宅で酸素テントを作り、つらい呼吸を補ってやるしかないそうである。
足元がふらつき、トイレにさえ行けなくなっても、一歩も歩けなくなり、同じ場所にうずくまっているしかなくなっても、愁は私を見つめ続けた。私が動く先々に、やっとの思いで視線を動かしてくれていた。私は酸素テントの横に布団を敷いて横になりながら、片時もそばを離れないようにした。一分一秒でも一緒にいたかった。話したいことが、いくらでもあった。だって二人は、特別な関係であるから。
次の朝、よりいっそう苦しそうに、全身で息をしていた。そして、瞳は部屋の一点を見つめている。
「まだ、だめ。お願い、連れていかないで」
半年前に亡くなった兄が、迎えに来ていた。
私はいつも探している。テーブルやテレビ台の上、ソファーのクッションの間。窓やカーテンの下。庭の隅々。公園の片隅や暗い路地。誰かの声が聞こえたら、名前を呼び、影を追いかける。
猫は九回生まれ変わるという。私たちはまた、必ず出会える。君がどんな姿で生まれ変わったとしても、出会えば二人ともすぐにわかる。そう、きっと、もうすぐ……。