最高の田舎旅行
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最高の田舎旅行
吉田章子
三月のある晴れた土曜日、都会に住む両親と小学三年生の双子の兄弟、良平と昭平のところにおじいさんとおばあさんから手紙が届いた。おじいさんは福島県北部ののどかな港町に住む漁師で、手紙には田舎料理を食べに家族で来てくださいと書かれていた。
「久しぶりに兄弟二人で行ってきたら? 今回はパパも私も仕事の都合で無理だから」
お母さんが言った。
「パパとママがいけないのは残念だけど、僕はお兄ちゃんとなら平気さ」
「じゃ、勇気を出して会いに行こう、昭平」
「それじゃ、決まりね。きっと喜ぶわよ」
春の三連休の初日、上野駅は家族連れで混雑していた。もう十番ホームには「スーパー日立六号」が良平と昭平を待っていた。
「仲よくね、最高の旅行を楽しんできてね」
お母さんは笑顔でホームを去っていった。
お母さんの生まれ故郷の港町平潟で降り、バスに乗り換え、午前中に田舎の実家に着いた。孫たちの弾んだ声を、玄関先からおじいさんとおばあさんが笑顔で待っていた。
二人の元気な顔を見ると、
「あんこうの吊るし切りを見せたや」
と、庭の奥へと案内した。そこには太い三本の柱が組み立てられて、その中央の一本が紐で結ばれていた。さらにその中心部に深海魚の巨大あんこうの口が、変わった道具でひっかけられて吊るしてあった。
「何が始まるんだろうね」
良平も昭平も、不安と恐怖の中、目を丸くして見守った。
さっそくおじいさんは、黒茶色のあんこうのエラとヒレを切り落とした。素早く口から皮を剥ぎとると、全身が白身になった。それから次々と白身や内臓やあん肝が取りだされ、口の周りの顎だけが残った。
「どうして吊るして切るの?」
この不思議な光景を見て、好奇心旺盛な良平は興奮した口調で理由を聞きたがった。一方、昭平は恐怖のあまり、体を震わせていた。
「普通の魚と違って、表面が軟らかくてヌルヌルしているからなんじゃよ」
「まるで水にぬれたカエルの皮膚と同じだね」
「そうじゃ、まな板で切るのはむずかしい。だからこうして吊るして切るんじゃ」
良平は昭平の手を強く握りながら頷いた。
そばにいたおばあさんは、切り取られた部位を素早く別々のボールに入れた。あん肝は脂がのっていてつやつやと光り輝いていた。
「これはね、海のフォアグラとも言われてね、健康にもいいし、風邪の特効薬なんだよ」
「僕の家族は、風邪には強くないんだ」
「まあ、まあ、それは大変だこと」
おばあさんは皺の多い笑顔で、冬の「あんこう鍋」や「どぶ汁」や「共酢」についてたくさん話してくれた。
「さあ、これからあんこう鍋の作り方教室の始まりや、全員参加して頂戴や」
おばあさんの突然の提案に、良平が喜んで手を上げると、昭平もその真似をした。
庭の中央の広場では、大きなかまどの中で薪の火がパチパチと音を立てて、真っ赤に燃えていた。良平はかまどの上に乗せた巨大鍋に下処理されたあん肝を入れ、木のしゃもじでかき混ぜた。おじいさんと昭平は次々とヌメリを取り、鍋に白身を入れた。おばあさんは最後に二種類の合わせ味噌を加え、小さく切った豆腐や野菜を入れた。
強火から弱火に徐々に火を落とすと、オレンジ色の脂が鍋全体に広がってでき上がり。
「これはね、この地方に昔から伝わる田舎料理なんじゃよ」
おばあさんは得意顔を見せた。
良平と昭平は「グーグー」と親指を立てた。
「なんておいしいの、おばあさん」
「うふふ、みんなで力を合わせて作ったからや」
それは全員の心が一つになった瞬間だった。都会では味わえない家族団欒の幸せの時間。
「お父さんもお母さんも一緒だったらなあ」
「うん」昭平はちょっぴり涙ぐんだ。
おじいさんは木製の古椅子に座ると、あんこう汁を酒の肴に地酒「六海山」を飲みながら、あんこうの昔話を語り始めた。
「この港は、太平洋の北前船の寄港地で、地元ではあんこう鍋を毎日味噌汁代わりに食べていたんや。やがて民宿でこの料理を出したところ、有名になったんじゃ」
さらに酒の酔いも加わって、あんこうの「謎の生態」にまで話が弾んだ。良平も昭平もわくわくしながら次の話を待っていた。
「このデリケートな深海魚あんこうは、産卵の卵は十五メートルくらいの長さと幅を持ち、寒天状の帯はカエルの卵に似ているんや。やがて成長して大きな頭と口を持ってなあ」
その話に二人とも興味津々だ。
「体全体が粘膜でおおわれ、海底に生息しているんや。カレイやイカ類などを餌にして生きているんじゃよ」と、おじいさんはまるで社会科の先生だ。
その夜、良平と昭平は「来年は家族みんなで来るからね」と言った。おじいさんは笑顔を見せると、「また楽しみが一つ増えたわい。よかった」。そばでおばあさんも観音様のような微笑を見せた。「最高の田舎旅行」と二人も幸せそうな顔をしていた。