阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「KAWAUSO」鶴岡麻伊
カワウソは、動物園のカワウソだった。カワウソのもとには、飼育員の男がやってきて世話をした。夕から朝にかけては会えないが、できることならずっと、一緒にいたいと思っていた。
ある朝、飼育員の男は来なかった。また次の日も、来なかった。代わりにやってきて餌を置く女がしきりに何か話しかけてきたが、何を言っているかはさっぱりであった。次の日も、また次の日も、男は来ることはなかった。カワウソは、男の履く長靴の匂いや、差し出された指先の感触を思いながら、ひたすらに待った。
いくつもの朝が過ぎ、年老いたカワウソは天に召された。そこには美しい花が咲き、天の味がする果物が一日中食べられたが、カワウソはまた地上に戻ることを願った。
「どんなことがあろうと、待つことができるか?」
カワウソはうなずいた。
「どれだけ時間が流れても、待つことができるか?」
カワウソはまた、うなずいた。
「では、おまえを地上にもどしてやろう」
木漏れ日に目を覚ますと、カワウソは湧水のそばの砂つぶだった。まわりは大小の石ころや同じような砂利であふれていたが、どうやら皆ここへ来たのは、何かを求めてのことらしかった。
ある者は清流に乗り下っていき、またある者は獣の脚に蹴散らされ、辺りの顔ぶれは一日として同じではなかった。嵐の吹き荒れた夜には百の砂が、生い茂る木々の向こうへと消えていった。カワウソはぐっと地面にへばりつく。何度かトカゲに転がされたが、それでもぐっと、力を入れて踏ん張った。
千回目の朝を迎えたころ、カワウソは掌ほどの石になっていた。
「おまえさん、どうしたってそんなじっとしているんだい」
ふいに、横にいた石が話しかけてきた。カワウソよりか二回り大きい石だった。
「そうか、おまえさん話せないのだね。人間ではなかったのだね。珍しい子だ。ここらの者は、どこかに行きたくても行かれなくて、大風が吹いたり、雨がひどくなって川が荒れたりして、運んでもらうのをうずうず待っているもんさ。もう少し、楽に、身を任せてごらん。探しものも、そうしているうちに見つかるよ」
カワウソは、ゆっくりとうなずいた。
「お互い長い旅だろう。わたしが横にいてやろうね」
カワウソが嬉しくなってもう一度うなずこうとしたとき、バシャバシャしぶきをあげながら子どもが一人やってきた。子どもはおもむろに横にいた石を持ちあげると、川面に向って思い切り投げ飛ばした。水面を二度だけ跳ねて、石は沈んだ。カワウソは、またひとり、地面にぐっとしがみついた。
八千回目の朝を迎えたころ、カワウソは大熊ほどもある岩になっていた。そよぐ風や羽を休める鳥たちを迎え入れ、ただひとりそこにいる、岩になっていた。苔むしたカワウソの横を、日がなたくさんの生き物が通りすぎ、狸の子などは、ときにその滑らかな岩肌をすべって遊んだ。
ある朝、一人の旅人がやってきた。喉の渇きを癒そうと水音を頼りに来たのだが、その足取りはおぼつかず、ついに川へはたどり着けずに、目の前に鎮座するカワウソの上へ身をあずけた。もう、一歩も歩くことができなかった。
旅人が力なく投げ出した四肢を、カワウソが分厚くなった苔で優しく包んだ、そのときだった。なんと懐かしい匂い。この感触、わずかにかかる吐息。カワウソは久方ぶりに、自分がカワウソであったことを思い出した。もう一度、優しく優しく、旅人の体を包む。鉛のようだった旅人の両脚が、嘘のように軽くなった。喉の渇きはない。カワウソに抱かれた旅人は、やがて穏やかに、呼吸をするのをやめた。
旅人の骨身がカワウソへと溶け込み、またカワウソが、ほんとうの岩になったのは、ちょうど百万回目の朝のことだった。