阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「闇が引いたあとに」家田智代
日曜日。森にあるという設定で建てられた街の小さな美術館にやってきた。最近ずっと疲れている。職場でもプライベートでもいろいろあったから。
私は人に優しくしよう、人の心を傷つけないようにしようと心がけているのに、人は私に対してそう思ってくれないみたいで、そんな扱いばかり受けていると、私も人のことを考える気持ちがしぼんで自分勝手になって、笑顔が消えてしまう。人に優しくしなきゃ、と思ってもできなくなったりする。
そんなときは、ここに来る。この美術館は、ささやかな私のパワースポット。絵をながめ、館内のカフェでおいしいお菓子とお茶をいただくと、明日からまた、がんばって生きていこうという気になれた。
今だったらそう、大好きなあの人の結婚を祝福する気持ちにだってなれるかもしれない。ここを出て、誰もいない家に帰ったら、気が変わるかもしれないけれど。
展示を見終わって売店をのぞくと、手鏡が目にとまった。そういえば、あの人からもらった鏡は割れたっけ。違う、割ったんだ。花の絵が描かれた鏡をためつすがめつしながら、あの人との会話を思い出す。
「自分が世界を変えられるって知ってた?」
「まさか」
「本当だよ。ぼくの世界は変わった。きみとの出会いによって。きみのいる世界といない世界は、まったく違うもん」
「そんな大げさな」
「もっといえば、きみのおかげで世界は毎日変わる。優しいきみがいる世界、悲しいきみがいる世界、怒っているきみがいる世界」
私が怒ると、あの人は鏡を差し出した。そこに映る自分の顔を見ると怒れなくなる。たいして美人でもない私だけれど、笑っていると、ちょっとかわいく見える。反対に、怒ると醜く見えた。
私の誕生日に、あの人は手鏡をプレゼントしてくれた。「フリーマーケットで買ったんだけど、きれいだろう?昭和の初めのものなんだって」と瞳を輝かせながら。少しゆがんでいるような、けむっているような鏡がとらえる光景は、昭和の光景のように思えた。
そんなあの人が突然、別の人と結婚するからと私の前から姿を消した。私の世界は暗転した。あの人にいわせれば、再び世界が変わっただけなんだろうけど。
悲しくて、やりきれなくて、私は鏡を床にたたきつけた。鏡に罪はないけれど、それは唯一、あの人からもらったものだったから。
でも、すっきりするかと思ったら、そんなことはなくて、壊れた鏡に映る壊れた世界を見て、よけいさみしくなっただけだった。
恋を知らないよりは幸せ、と思おうとした。時間がたてば、苦い思い出も甘い思い出に変わるだろう、とも。
鏡を買って美術館を出た。出入口のところで不意に小さな男の子を連れたママから、写真を撮ってほしいと頼まれた。適当に背景に緑を配して、適当にシャッターを押した。なのに「これでどうでしょう」と画面を見せたら「わぁ、すごく素敵!」「写真上手ですね!」と、おおいに喜ばれた。
無邪気な男の子の笑顔と、その子を見つめるママの笑顔を見たら、自分が何か、とてもいいことをしたような気がした。
帰りの電車は混雑していた。座れてホッとしていると、遊園地の帰りらしい親子連れが乗ってきた。遊び疲れてぐったりしている女の子を抱いたパパ。
きのうの私だったら心がささくれていて、席を譲る気になどなれなかっただろう。
いいわね、愛する人と家庭を築いて、かわいい子どもがいて。疲れているといっても、さんざん楽しく遊んできたからでしょう?そんな幸せなあなたに、なぜ不幸な私が席を譲らなければならないの?私だって、ううん、私のほうがずっと疲れてるのよ、と。
でも、今日の私は席を譲ることができた。めちゃくちゃ感謝されて、またもや、すごくいいことをしたような気分になれた。
誰もいない真っ暗な家に帰り着いて電気をつけると、テーブルの上に置きっぱなしだった割れた鏡が目に入った。割れた鏡に映り込んだ部屋の天井や壁は微妙に遠近感がちぐはぐで、見知らぬ部屋みたいだった。見慣れた自分の部屋だというのに。
「ふぅ」と息を吐いて、私は割れた鏡をマンションのごみ置き場に捨てにいった。これで気持ちに片をつけようと思った。けれども、ベッドに入ってもなかなか眠れない。
夜が明け始めたので寝るのをあきらめ、外を見た。潮が引くように街から闇が引いていく。思いついて、買ったばかりの鏡を窓辺に持ってきた。鏡に太陽の光が映り込み、反射して部屋の中を明るさで満たしていく。大丈夫、ちゃんと笑うことができる、と思った。あの人の結婚も祝福できるような気がした。