阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「鏡の向こうがわ」朝霧おと
小さなころから人の目をまともに見ることのできない子どもだった。
「人とお話するときはちゃんと目を見て」と先生や母親に何度叱られたかわからない。怖かったのだ。私の心の中が、隠していることが、いけないことが全部見透かされそうで。
「なんで言いたいことが言えないの? そうしていつも目をそらせてばかりいたら、だれもあんたの言うことなんかわかってくれないよ」
そう言われ続けて育った。
胸の中のあふれるほどの思いは、いつもギュッと固めて胸の奥にしまいこんでいた。
へんな子だね。何を考えているのかわからない。それが私に対する周りの印象だった。
大人になってからもそれは続いた。仕事上では、パソコンや書類を見ながらなのでなんとかごまかせたが、ランチ時やロッカー室でのたわいない会話のときは困った。きっとみんなは気づいていると思う。けれどだれも私に「目を見て」とは言わなかったし、そのことで責められたりはしなかった。疎外感はあったが、それほど苦痛ではなかった。
髪を切りに美容室へ行ったのは、雪の降る休日の午後だった。
「申し訳ありません。いつもの担当者が急に休むことになりまして、本日は代わりのものが担当させていただきますがよろしいでしょうか」
店長の後ろから現れたのは若い男性美容師だった。あっさりとしたいまどきの流行り顔の男だ。
私は鏡越しに「お願いします」と言った。
新人の三好は「少し痛んでますね。トリートメントをしましょうか」と言い、私の髪を愛おしそうにさわった。
私を見る彼の瞳は澄んでいた。鏡越しで見る彼の優雅な手つきと立ち振る舞い、あざやかなはさみさばき、ときたま私の頭に手をやりこちらを見るときの真剣なまなざし、私はたちまち彼に心を奪われてしまった。
鏡越しならなんでも話せた。好きな映画や食べ物や音楽についての会話はつきることがなかった。
その日から考えるのは彼のことばかり。「最近楽しそうだね」と同僚に言われると、あわてて目をそらせ首をふった。そんな私を知ってか知らずか、それ以上はだれもつっこんで聞こうとしないので助かった。
次に美容室に行くのはまだ先だ。私はその日が来るのを心待ちにしていた。
休日、新しいセーターを買うために街へ出かけた。全身が映る鏡の前で、セーターを胸にあてているときだ。鏡の中に彼がいた。彼は隣の売り場でマフラーをひとつひとつを手に取り熱心に品定めをしていた。私の鼓動は激しく鳴り出した。もうセーターなんかどうでもいい。こっちを見て、私に気づいて、と必死に祈った。
ふいに彼が顔を上げこちらを見た。私はうれしくてうれしくて鏡越しに精一杯の笑顔を向けた。
けれど彼の目は宙を泳ぐばかりで私に焦点が合わない。思い切って「三好さん」と呼ぼうとしたときだ、横から女性が現れ彼のうでにからみついた。
その日は一枚のセーターも買わずに帰った。
彼と彼女が手をつなぎ、お互いを見つめ合う光景が私を苦しめた。彼らは瞳の奥に見える秘密や邪悪な気持ちをすべて受け入れ合っているというのだろうか。
三ヵ月後、複雑な思いのまま美容室を訪れた。彼は前回と同じ対応で私をあつかってくれた。
突然彼の顔が私の目の前にきた。あまりに急だったので、私は目をそらすこともできずまともに彼の目を見てしまった。
「なにかありましたか?」
「え? なにかって?」
「悲しいことです。瞳が泣いています」
あわてて目尻に手をやったが涙など出ていない。
「こうして鏡を見ていると、お客様のふとした表情に心の中が見えてしまうんですよね。今日は悲しそうです」
鏡越しなら大丈夫だと安心していたのに、彼の目には見えていたのだろうか。その日、髪が仕上がるまで、私は目の前の鏡を一度たりとも見ることができなかった。
帰りがけに彼が申し訳なさそうに頭を下げた。
「失礼なことを言ってすみませんでした。気にしないでください。これに懲りずまたのお越しをお待ちしております」
夕暮れの街は凍えるほど冷たい。ぽつぽつともり始めた灯かりの中を歩きながら、彼の澄んだ瞳を思い出した。もう二度とあの美容室には行かないだろう。フードを深くかぶるとなぜかホッとした。