阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「妄想の住人」鎌田伸弘
そこでおれは途方に暮れる。またしてもY字路だ。これでなん度めだというのか。右か、左か。さっきは左をえらんだ。だったらこんどは右か。いや待てよ。そのまえのときに右をえらんで行ったとき、たしか犬の糞を踏んづけたんじゃなかったか。そうだった。だったらこんども左か。
そうだ。左をえらべばいいのだ。なにを迷うことがある。わたしはおまえのことはすべて知り尽くしているのだぞ。
またあの聲だ。いったい何者なのか。おれのすべてを知っているって? だいたい何を知ってるっていうんだ。
それにしてもどこかで聞いたような聲だ。あるいは過去に、身近なところでよく耳にしていたような気もするが――。
だめだ。どうしても思いだせない。不意になん重にも入れ子になって、いつまでも最奥までたどりつけないマトリョーシカのもどかしさに似ているとおもった。そして、あの愛らしいはずの笑顔も、そのおんなじ貌がいくつもあったら、ただもう不気味でしかなくなるのではないかともおもう。
どうしたのだ。なにをぐずぐずしている。それがおまえの悪い癖だ。そうやって決断をいつも先へ先へ延ばして、これまでにどれだけしくじってきたのだ。さあ、ゆくのだ。左へ。なにを迷うことがある。
しかしこの聲は少女の聲なんかではなく、男のものだ。おまけに傲岸である。あきらかに他人にたいしての口吻とはいえない。この男はおれの何だというのか。おれより年嵩であることは間違いないんだろうが、果たしてそんな知人がおれのまわりにいただろうか。
本当におまえは人のいうことを聞かない奴だな。まったく、素直じゃないな。
ああそうとも。ふん。おれは素直じゃないさ。若いころからそうだった。歳をとれば少しはまるくなると思っていたが、四十を過ぎてなお頑固で依怙地になってきているんだ。
そんなふうに考えたら、なんだかむしょうに腹立たしい気持ちになってきて、ほとんど破れかぶれにおれはY字路を右に進んだ。
やっぱりそうか。そうだと思ったよ。おまえは素直じゃないだけでなく、天邪鬼だからな。小さいときからそうだったよ。生まれつきなんだな。とはいえわたしも、似たようなもの……。
生まれつき? なぜそんなことがわかる?そう思ううち男の聲はしだいに薄れてゆき、そして――。
そこでおれは途方に暮れる。まただ。またY字路である。いまY字路を抜けてきたばかりじゃないか。いったいこの街はどうなっているんだ。そもそもここはどこなんだ。おれはなぜこんな見知らぬ街に足踏み入れたのだ。
また右に戻ってきてくれたんだね。もう左には行かないでおくれよ。ずっとそばにいておくれよ。
別の聲だ。さっき右へいったときに聞こえてきた聲だ。こちらはあきらかに若い。若いどころかほとんど子どものような聲である。今のおれには、子どもの知り合いなどますますありはしないはずだが、いったいどこの子だというんだ。しかもなぜおれなんかにつきまとうのだ。
ほかに頼りにできる人なんていないよ。いるわけないじゃないか。わかっているのに、どうしてそうやって逃げようとするの。いつだってそうだったよね。これからもそうする気なの。また左に行こうとしてるんだね。
さっぱりわからない。なぜそうやっておれを責める? おれが何をしたっていうんだ。
聲から逃れるようにおれは左へ行った。
行かないで。行かないで。戻ってきてよ。
お願いだから、ぼくを、ぼくを置いて……。
聲をふり払うようにおれは歩を早めた。それにしてもあの聲も、いつかどこかで聞いたような、それどころか、あの傲岸男の聲とも似通った、というか、なんか合せ鏡のように響きあって――。
そこでおれは、また途方に暮れた。またY字路だ。だが途方に暮れたのはY字路のせいではない。ではなにか。おれは見知らぬ街を彷徨っているはずじゃなかったのか。そう、あろうことかY字路の分岐点に立ってこちらを見ているのはおれの妻だ。そこに立っている家の扉を開け、微笑みながらおれを中に入れようと手招きしている。だがそこはおれたちの家ではない、はずだが、いや、あるいはおれたちの家なのか? おれたちには子どもはいなかったはずだが、もしかしたらその家の居間には、おれたち二人の、まだ見ぬ子がゆりかごに揺られているのかもしれない。ふらふらと誘われるままにおれは妻のほうへと近づいてゆく。耳元で妻がささやく。
「お帰りなさい。きょうはお義父さんの命日よ。ささやかだけど、献杯しましょう」
そのときおれはすべてを理解した。鏡は合せ鏡なんかじゃなく、三面鏡だったのだと。