阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「自由」北島雅弘
木造アパートの外に付いている、たった十三段の階段を上がるのに、まる一日が必要なのではないかと思われた。
赤茶色に錆びた手摺に掴まって、老女は一歩一歩足を踏みしめて階段を登った。部屋は二階にあった。廊下を歩くと、便所からアンモニアの臭いが漂ってきた。便所は二階にもあってそれは便利なのだが、この臭いにはいつまで経っても慣れることができない。くみ取り式トイレの全体に臭いが染みついてしまっているのだろう。胸の奥に重苦しいつかえを感じながら、奥から二番目の部屋の前まで来て、ドアノブを握って引いた。近くのスーパーへ買い物に行っていた彼女は、自分一人の部屋に帰ってきた。
六畳一間に二畳ほどの台所が付いた部屋の中には、テレビと、丸い飯台と、一人がけの小さなソファーがあるが、どれもみなだいぶくたびれている。女は買い物袋を台所の小さなテーブルの上に置くと、色の変わったソファーに腰を下ろして息を整えた。しばらくの間、彼女は動かなかった。二十分ほどその場にいてから重い腰を上げ、買い物袋の中身を取り出して冷蔵庫の中に納め始めた。
女は先月七十九歳になった。夫は十年前に他界していた。死因は脳出血だった。仕事から帰ってきて玄関で倒れ、救急車で病院に運ばれたがもう手遅れだった。夫の方が先に行くとは思ってもいなかった彼女は、その後数年どこか落ち着かない心持ちで暮らしたが、不安は現実問題となって迫ってきた。夫は亡くなるその日まで個人タクシーの運転手をしていた。彼女に支給されるのはわずかばかりの国民年金だけだった。年金と貯金を頼りに何とか暮らしてきたが、蓄えがその間にだんだんと心細くなってきたのだ。職を探そうとしたが、七十を過ぎた自分にできるような仕事があるとは思えなかった。今までに事務員の経験しかなかった彼女には、今更何か新しい事柄に挑戦するだけの勇気がなかった。これから自分が生きるかもしれない年数で計算した生活費と、引っ越しなどで必要な金額を比較して、けっきょく家賃の安いアパートに移り住む方を選んだ。部屋に入り切らない大型の家具は全部捨ててきた。
女は買い物袋の中の物を片付け終えると、丸い飯台の前に腰を下ろし、習慣的にテレビのスイッチを入れた。飯台の上は薬の袋や、小さな四角の置き鏡や、ボールペン立てや、ポストに入っていた広告などで散らかっている。テレビは見る気もなく、ただ部屋の中の静寂が嫌で点けただけだった。目の前の置き鏡が、彼女の顔を映している。鏡に目をやると、いつもの顔があった。薄くなった白い髪、垂れた頬、顔全体が谷のように深い皺で覆われている。鼻の下から唇に掛けては何本もの縦筋が刻まれている。鏡の中の顔を見ていると、夫のことが思い出された。
「どうしたらいいの?」
女は呟いた。鏡は何も答えなかった。暫く自分の顔を眺めてから、台所に行って夕飯の用意を始めた。荒い息を吐いて、顔をしかめながら出来合の佃煮を皿に盛り、冷蔵庫にラップで包んで入れてある幼児の握り拳大の飯をレンジで温めた。
それらを盆に載せて飯台の前に持って来た時、急に胸の苦しさが激しくなって畳の上に倒れ込んだ。飯台に頭をぶつけて、目の前の物があたりに散らばった。横たわった女の額に汗がにじみ出た。胸の真ん中が太い杭を打たれたように痛んで息ができなかった。足を曲げ、身体をくの字にして両手で胸の前の服を握り締めた。飯台からころげ落ちた鏡が、横向きになって目の前にあり、自分の苦しむ表情を映していた。
「たすけて」
彼女は自分の顔に向かって呟いた。次第に気が遠くなった。顔をしかめて目をつぶっていると、どこか遠いところから男の声が聞こえてきた。
「……子」声は女の名前を呼んだ。「早くこっちへおいで」
薄く目を開けると、鏡の中に夫の顔が映っていた。
懐かしい顔だった。夫が迎えに来たのだ。そう思うと、これまでの一生が何でもないことのように感じられた。今ようやく、すべての過去から自由になれたのだ。夫は静かに微笑みながら彼女の来るのを待っていた。彼の手が鏡の中から彼女に向かって差し伸べられた。
女はそれに応えるように腕を伸ばした。それからその手を振り払って夫に背を向け、目の前に広がる遙かな冥界に向かって駆けだした。喜々として。