阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「つくり笑顔」出﨑哲弥
都心に自社ビルを構える株式会社S商事。始業十五分前、受付係のサユリは、いつものように自席で準備に取り掛かった。
受付カウンターをきれいに拭いて、花瓶の水を取り替える。花は生け直す……。今の仕事に就いてそろそろ半年近くになる。半年も経てば、ちょっとした手抜きを覚える新入社員も少なくない。しかしサユリは最初に教わった手順を守って、業務を丁寧にこなしている。そこは周囲の評価も高い。
カウンター周りの準備をきっかり五分で終えた。ただサユリにとって最も重要なルーティンが残っている。カウンター内の、正面からは見えない位置に、小ぶりな鏡を立ててある。サユリは自身の顔が映るように角度を調節した。
と、そこへ二人の男性社員が通りかかった。サユリは即座に顔を上げた。
「杉田専務、西村次長、おはようございます」
サユリの中で全社員の顔と名前は一致している。まずは自社の社員、次は得意先、受付係として覚えなければならない人間の数は、限りがないといってよい。
「今朝もすてきな声だね。労働意欲が湧いてくるよ」
西村次長が声を掛ける。
「ありがとうございます。そう言っていただけると嬉しいです。私も一日がんばれそうです」
サユリの返答に、西村次長は顔をほころばせた。
「西村、何ニヤけてるんだ」
呆れ顔で杉田専務が言った。今度は自分の番だと言わんばかりに、西村次長を押しのけた。
「サユリくん、いつもに増して肌ツヤがいいんじゃないかい。昨日の夜、何かイイことあったかな」
杉田専務は好色な視線をサユリに向けた。
「杉田専務、今のはセクハラに当たります。ご注意ください。これで二回目です。次は社長に報告することになりますよ」
サユリは臆せずに言った。
「おーこわ。すまんすまん、今のは忘れてくれ。と言っても無理か。以後気をつけるよ」
「専務、少しは学習しないと。ですよね、サユリさん」
「西村次長、上司にそれは言い過ぎではありませんか」
「え、まいったな、こりゃ」
二人は苦笑しながら去った。
サユリは始業までの残り時間を確認した。今のやりとりのせいで、時間をロスしている。いつもの通りルーティンを行ったとしたらどうだろう。計算ではなんとか間に合う。短縮バージョンに切り替える必要はない。すぐに鏡に顔を戻した。
まず口角だけを軽く上げて、目元を柔らかく緩めた。一拍置いて、表情を元に戻す。
「80点」
復唱するようにサユリは小さく呟いた。
もう一度微笑む。
「92点」
さらにもう一度。
「100点」
今度は口を逆三角形に開いた。真っ白な歯が覗く。目も細めて、こぼれるような笑顔が生まれた。すぐ表情を戻す。
「89」
同じ大きな笑みをそこから二回繰り返した。サユリの呟く点数は、そのたびに96点、100点と上がっていった
ルーティンは終了した。
サユリは最後に首元のスカーフが崩れていないか確かめて、鏡を脇へずらした。顔を正面へと向ける。両手をスカートの上に重ねる。背筋がスッと伸びた。
エントランスホールは吹き抜けになっている。二階の手すりから、二人の男性がサユリをずっと注視していた。一人は社長の中林、もう一人は杉田専務だった。
「社長、なかなかのものですな、サユリ嬢は」
「だろ。専務にはイヤな役目を押し付けてすまないね」
「いやいや、想定外の事態や社内秩序を乱す行為への対応力を試すためとあれば」
「セクハラはあと一回でアウトだとか?」
「ハハ、処分は勘弁してくださいよ。それにしても受付をロボットにすると社長がおっしゃった時は、正直どうなることかと……」
「まあ事務的な対処は心配いらない。問題は表情、笑顔だよ。人間の表情筋を模したシステムは、相当繊細なものらしい。微妙な誤差が生じやすいんだそうだ。だからさすがのサユリ嬢も、ああやって鏡でセルフチェックを何度か行わないと、自然な笑顔とはならないんだね」
最初の訪問客をサユリが迎えている。