阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「日めくり暦の珈琲カップ」南原麻子
砂壁に押しピンで止められた日めくり暦が、窓から吹き込む冷たい秋風に煽られている。面白みのない日付だけの書かれた暦だ。
六畳二間続きの粗末な部屋には、家具類を運び出すと写真一枚残っていない。人様に迷惑をかけることを嫌った母らしい。
母が五十三歳で急逝したのは一週間前である。脳内出血だった。夫を早くに亡くした母は二十八年前、乳児だった優香を連れ、この部屋に越してきた。高校教師の母は弱音一つ吐かず優香を育ててくれた。優香も母に恥じぬよう名の知れた大学を出て、地元の都市銀行に入行した。国立大学出身で出世を約束された同期の健二と結婚もし、やっと母を安心させられた。それなのに、先日、健二はイタリアンレストランを開きたいと打ち明けてきた。公務員の長身の手前、安定した銀行員の道を選んだが、自分に嘘をつけなくなったなどという。恵まれた人生を投げ出す意味が優香には分からない。子供だって欲しい。自分の人生どころか妻である自分の人生を何だと思っているのだと、優香は腹立たしかった。
西日に焼けた畳を濡れ雑巾で拭いていたら、スマートフォンが音を鳴らした。健二からメールだ。今夜は遅いという。優香は溜息をついた。母の死で休戦状態だが、あれ以来ぎくしゃくしている。
と、さっきより強くなった夕刻の風で押しピンがはずれ、暦が畳の上に落ちた。優香はたまたま開いたページの隅に何か書かれているのに気付いた。
PM八時。胡桃珈琲
母の字だ。クルミもコーヒーも漢字なのが国語教師らしい。店の名前と待ち合わせの時間だろうか。他のページを繰ると、ひと月に二回のペースで同じメモ書きがある。優香は首を傾げた。毎回、同じ内容をメモする必要があるのだろうか。母は合理的な人間なのだ。そのメモは九月二十日を最後に途絶えていた。つまり今日である。
ネットで調べたら胡桃珈琲は都内に一件だけだった。高級住宅が集う駅の路地裏に佇むその店は、木扉を押すと、芳ばしい香りが充満していた。カウンターの内側で年配の女性が「いらっしゃいませ」と微笑んだ。テーブル席はなく、入り口近くの席に座ると、硝子棚いっぱいに並んだカップに目を奪われた。
「奇麗……」
優香が呟くと店の女性は言った。
「軽い味わいは飲み口の薄いもの、コクがあるのは厚めのものといった風に使い分けるんです。でも好みは人それぞれ。棚の左半分はお客様たちのマイカップなんですよ」
それを聞き、優香は思わず母の名を口にした。
「篠田知子のカップはありますか」
事情を話すと彼女は驚きながらも母のカップに好きだったというキリマンジャロを入れてくれた。薄桃色のチューリップ型をした可憐なカップだ。どちらかといえば珈琲は苦手だが、これは優しい酸味が心地良く後を引く。それにしても堅物の母が、こんなに女性らしいカップで珈琲を味わっていたとは。
しばらくして目鼻立ちの整った長身の男性が現れた。店の女性が優香に目で合図した。
田辺正行というその男性は、優香が母のことを伝えたきり、対角線を境に白と黒を配したモダンなカップに手を添え、黙ったままだ。
「失礼ですが、母とは」
思い切って尋ねると彼は優香を真っ直ぐ見た。
「お付き合いさせて頂いていました」
「は?」
優香は素っ頓狂な声を上げた。ありえない。
年の頃は優香より少し上か。おまけに、世に言うイケメンだ。しかも「超」のつく。
「十年前、教育実習生として、恩師だった知子さんと再会しました」
なんと教え子! しかも十八歳差だという。
「母の何が良かったんでしょうか。その、地味だし、面白くないし……」
「知子さんは、とても可愛らしい女性です」
彼はきっぱり言った。意外だった。あの、しっかり者の母が可愛らしい? ふと、暦に忘れえるはずもない予定をメモする母を思った。そうか。母はメモが現れる日を楽しみに、毎日、暦をめくっていたのだ。なるほど可愛らしい。
店を出て駅まで一緒に歩いた。線香を上げたいという田辺に自宅の住所を書いた紙を手渡すと彼は深く頭を下げた。が、そのまま動かない。優香は、はっとした。泣いている。
「すみません。もう会えないんだと思って」
食いしばる歯の隙間から声が漏れる。優香は、目の前で男が泣くのを初めて見た。胸のうちで「お母さん、やるじゃん」と呟いた。
田辺と別れ、優香はスマートフォンで夫の健二に電話した。彼が出るなり優香は言った。
「やりなよ。レストラン」
健二は「え?」を繰り返すばかりだ。
「だから、やればいいって言ってるの」
自分の珈琲カップは自分で決めたらいい。
その言葉は飲み込んだ。