阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「おしものづき」秋あきら
やけに長いな、と登は思った。この路地を抜けて左に折れるとすぐに自宅アパートだ。しかし、路地の終わりがなかなか見えない。
くそ、筋を一本間違えたか。登は舌打ちした。先月引っ越したばかりで、まだこの辺りに慣れていない。特に夜だとさっぱりだ。
登は、四月の異動でこの町にやって来た。職場の人はそれなりに接してくれるが、町の人間は警戒心が強く、排他的だ。おかげで毎日営業周りに苦労している。
「まったく、今日も散々だ……」
戻ろうと体を反転させた登は、息を飲んだ。目の前に、小さな店が一軒建っていた。今入ってきたはずの路地も消えていて、辺りには何もない。店は板張りにトタン屋根で、小屋そのものだ。それでも、登がそれを店だと認識したのは、屋根の下に看板が出ていたからだ。消えかかった文字で『小黄泉堂』と書かれている。入り口のガラス戸から中は覗えないものの、橙色の光が煌々と漏れていた。
「ど、どうなってるんだ一体」
戸惑っている登の前で、そのガラス戸が、音もなくひとりでに開いた。
「ひ、開いたっ」
店の中は、まるで物置だった。積み重ねられた長持ちや木箱、小さな箪笥に水屋もある。箪笥の引き出しからは、汚れて破れた衣類がはみ出ている。水屋の中に仕舞われている茶碗や皿も、欠けているものが目立つ。壁際には、束ねたロープに鎌や鍬が、これでもかとぶら下がっているし、その下にある書き物机には文房具や和綴じにされた本らしきものが散乱していた。そしてこれら全てを、天井の裸電球が眩いばかりに照らしている。
とてもじゃないが、どれも売り物には見えない。やはり単なる物置小屋なのだろう。奥の方に目をやると、高い位置に作られた棚に様々な酒瓶が並んでいた。見たこともない銘柄だと思っていると、いきなり声がした。
「いらっしゃいまし。どれにしますかえ」
登は飛び上がって驚いた。荷物の中に埋もれるようにして、一人の老婆が丸椅子に座っていた。さっきからいたのだろうか、全く気がつかなかった。老婆はやたら大きな目で、登を下から睨みつけた。
「ここは小黄泉堂、地獄の品を売る店じゃあ。何も買わずにこっから出ることはできませんでえ。なんなら、試してみなさるか?」
そう言って、老婆は不気味な声で笑った。登は身震いした。老婆の言葉には、逆らい難いものがあった。登は、がくがくと頷くと、もう一度店の中を見回した。
そして、柱に掛かった日めくりに目を止めた。ご丁寧に今日の日付まで破いてある。日付が大きく印刷された紙はB6サイズの薄紙で、登が子どもの頃実家の柱時計の下に掛かっていたような、妙な懐かしさを感じた。
「どうやら、お決まりのようですのう」
老婆は満足そうに目を細めた。
「お、おいくらですか?」
登は早くこの場から離れたい一心で尋ねた。
「有り金全部、が決まりですわい」
「え?」
「地獄の品物は、有り金はたいて買うもんじゃ。嘘を言うても、すぐバレますでえな」
登は言われるまま財布を取り出した。しかし、幸か不幸か、財布の中身は二千円と小銭しか入っていなかった。給料日前だったのだ。
「はい、ありがとさんで」
いつ老婆にお金を渡したのか、気がつくと登は空の財布と汚れた日めくりを手に、路地の真ん中につっ立っていた。路地の出口がすぐ先に見えている。いつもの風景だった。
日めくりは、寝室の壁に掛けた。どういうわけか、捨てる気になれなかった。朝目覚めると必ず枕元に前日の日付の紙が落ちていて登を驚かせたが、毎日の事で慣れてしまった。
それよりも気になったのは、体調の変化だった。毎日食べるものがやたらと旨いのだ。登はあふれてくる食欲のままに食べ続けた。
それから半年が経ち、十一月になった。その日登が目覚めると、視界一面が白かった。夢かと思って何度も頭を振ったが、白いままだ。ふと見ると、遠くに窓らしきものがある。変わった形の窓だ。近づいてみると、窓は二つあり、数字を反転させたような形をしていることが分かった。ゆっくりと覗いてみる。
「あれは俺の部屋じゃないか……」
窓の向こうには、登の寝室が見えた。するとここは? 頭をひねる登の後ろで笑い声がした。慌てて振り返ってみると、白い着物を着た、髪の長い痩せた女が立っていた。
「ここは暦の中さ。『おしものづき』になるのが待ち遠しかったけど、お前、いい具合に肉がついたじゃないか。待った甲斐がある」
「おしものづき?」
「知らないのかい? 食物月、霜月とも言うけどねえ。今年収穫されたモノを、食べる月のことなのさ」
そう言って女は、鋭い牙を見せて笑った。