阿刀田高のTO-BE小説工房 佳作「思い出せない」広都悠里
どうしても思い出せない。
手帳の最後のページに自分の字で書かれた二〇十八年十二月三十一日という日付けが何を意味するのか。
もちろん、その日は大晦日であり一年の締めくくりの日だ。だがそんなことはわざわざ書き記すことでもない。他に何か意味がある筈だ。
もちろん、最初は覚えていたのだ。そうそう、この日だな、と思いながら年度が変わり、手帳を新しくするたびにその日を忘れないように書き写していた。最初はその理由も書いていたのかもしれない。そして、いつからか思い出せなくなった。
わからないまま、何かの拍子に思い出すこともあるだろうと書き写してきた。
そしてついに二〇十八年十二月を迎えてしまった。
何が起こるのだろう。良いことか、悪いことか。
あるいは何も起こらないのかもしれない。思い出せないぐらいなのだから、きっとたいしたことではないのだ。
そう言い聞かせても、十二月に入ってからそわそわとカレンダーばかり見るようになった。
なぜ、理由を書かなかった。
何が起こるんだ。
日増しに膨れ上がる思いに苛々と落ち着かない。
「ばかばかしい、何も起こらないに決まっている」
口に出してそう言ってみた。
十二月三十一日。ただの大晦日だ。二〇十八年が終わるだけだ。
「あなた、最近なんだか落ち着きがないわね」
最初笑っていた妻も、日を追うごとに怪訝な表情になってきた。
「どこか、具合でも悪いの?」
「いや、別に」
「じゃあ、悩み事? それとも隠し事? 何かあるなら言っちゃいなさいよ。来年に持ち越しはよくないわ」
「そんなもの、あるわけないじゃないか」
もしかしたら、と一縷の望みをかけ、ついにその日に聞いてみた。
「なあ、今日って何かあったっけ?」
「何かって?」
「それがわからないから聞いているんだ」
「何か、って今日は大晦日じゃない」
「そんなことはわかっている」
「じゃあ、他に何があるっていうの?」
「聞いているのはこっちだぞ」
「何よ、変な人ね」
妻は知らないようだ。
一体何なのだ。世界が滅びると予言された日だったのか、生涯最大の厄日なのか、あるいは誰かと何か大事な約束をしていたのか。
ここ数年何度も思いだそうとしているのに思い出せずにいるのだ。もうあきらめろ。 なるようになれと覚悟を決めてテレビをつけた。
「結局何も起こらなかったな」
時計を見上げた。テレビの画面では歌手が入れ代わり立ち代わり歌っている。
「今年も残すところあと三時間となりました。この一年、どんな年だったでしょうか」
真っ白なスーツを着た男がマイクを持って語りかける。
別にたいした一年じゃなかったよ、と胸の中で答える。そう答えられることが幸せなことだということも知っている。
「はからずも平成最後の大晦日となりました。さて、ここで十年前の缶詰めを開けましょう。発案者の安田成貴さん、見ていますか。この中にはあなたのメッセ―ジも入っています。今から読み上げますよ」
いきなり名前を呼ばれて驚いた。
これだったのか!
「ええっ。そんなことなら録画予約をしておいたのに」
隣で妻が大きな声をあげた。
そうだ。思い出した。十年前に企画が採用されてメッセージも書いて渡したが、音沙汰がないから実現しないのかもしれないと考えた。期待して失望するのは嫌だ。でも、もしかしたら、そんな気持ちであの日付を未来の自分に書き送ることにした。
最初から日付の意味は書かなかった。自分が忘れるくらいなら、企画がなくなってしまってもがっかりすることはないだろう。
そんな消極的な申し送りを自分にしたせいで、結局忘れてしまった。
だがこうやってきちんと約束を果たしてくれる人がいる。世の中捨てたもんじゃない。
最高の年だった。そして最高の幕開けだ。
あらやだ泣いているの、と優しく明るい妻の声が熱い気持ちに拍車をかけた。