阿刀田高のTO-BE小説工房 選外佳作「遅咲き」神城朱
昔馴染みの版元を訪ねた後、店に帰る道すがら夕暮れには似つかわしくない暑さに、通りがかりの茶屋で一服して、前を流れる川をぼんやりと眺めていると、当代一の売れっ子絵師、五渡亭国貞が芸妓連れで歩いてくるのが目に入った。堅い人物だとという噂は表向きで、実のところは遊び好きで、歌舞伎役者たちと交遊し、役者の殿様と呼ばれているという。なるほど、女としっぽり寄り添う様子は随分遊び慣れしているようである。顔見知りではあるが、ことさら親しいわけでもなく、また、そうなりたいわけでもない佐吉は、相手がこちらに気づけば、挨拶くらいはしようと考えていた。
反対側に目をやると、葦簀を抱きかかえ、のしのしとやってくる男がいる。あれでは前が見え辛かろう。ひょいと葦簀を斜めに抱えなおすと、平ぺったい愛嬌のある顔が、暑さのためか真っ赤なのが見えた。この葦簀は質にでも持ち込むつもりなのだろう。男がふと目線を前に向けたとたん、ぎょっと立ち止まった。どうやら国貞を気にしているらしい。国貞が通り過ぎても、下を向いたままずっと動かない。その肩も心なしか震えているようだ。
しばらくして、どぉおああという叫びとも怒鳴りともつかない声を上げ、葦簀を河原に投げ捨て、拳で腿をバシバシと叩きながら、ずんずんと今来た道を戻って行った。何とも向こうっ気の強い男である。国貞の売れない門弟だということは察しが付いた。売れっ子の兄弟子と情けない自分を較べ、今に見ていろと自分を叱咤する姿に、佐吉はお気張りなさいと声を掛けたくなる気持ちを何とか抑えた。
数日後、佐吉は寄合からの帰り、憎たらしいほどカンカンに晴れていた空が急に様相を変え、雨さえぽつぽつと降り出した。人々は小走りに店の軒下などに入り、雨風を凌いでいる。ふと、目の前をあの葦簀の男が走ってゆくのが見えた。佐吉は何気なくその後をつけ、長屋の一間に入るのを見届けると、雨宿りを装い近づいた。軒先からそっと中を覗くと、色とりどりの絵がそこらじゅうに散らばっている。
佐吉は思わず声をかけた。
「ごめんください。私は遠州屋の佐吉と申します。ちょっと絵を見せていただいてもよろしいでしょうか」
男は真っ直ぐに顔を上げ、佐吉の上品な身なりに少し驚き、
「へえ、つまんねえもんですが、見てやってくだせえ。わっちは豊国門下の国芳と申しやす」
凧やらすごろく絵などの玩具絵などに混じって、美人画や風景画、武者絵の肉筆画があった。どれも面白いが、武者絵は特に抜きんでている。この力強さと繊細さは世に出さねばならぬ才能だ。
「先生、これはどちらの版元にお引き渡しになるので」
「いいえ、とんでもねえことです。わっちは師匠にも版元にも見捨てられておりまして、描くだけ無駄で。それに、先生は止めてくだせえ。どうぞ、芳とでも」
「それでは芳さん、もしよければ、何枚か武者絵を描いておいて貰えませんか。これぞと思うものがあれば、版元を紹介しましょう」
「ほ、本当ですかい。ありがてえ。精進させてもれえます」
これ以来、佐吉は国芳をしばしば訪ねるようになった。この日も佐吉持参の寿司折を二人で食べながら、ああでもないこうでもないと構想を練っていた。
「曲亭馬琴の『傾城水滸伝』の大当たりに乗っかって、描いてみたんですが」
と国芳が差し出した三枚続の水滸伝の絵を見て、佐吉はうむむむとしばらく唸り、
「これはもったいない。民衆は水滸伝の豪傑に飢えているんです。芳さん、あなたの筆で一人一人、力いっぱい大きく描いておやんなさい」
国芳はその言葉に目から鱗が落ちたようであった。
「佐吉さん、そりゃあいい。ピンだ。豪傑をピンでいきやしょう」
ひと月後、佐吉と国芳は版元の加賀家を訪ねた。「通俗水滸伝豪傑百八人之一個」として売り出した史進九紋龍の錦絵の評判が気になったのである。加賀屋の主人は心配そうな二人の顔を見て、
「まあ、私の口から申さずとも」
と口をつぐんでしまった。そこに錦絵を商う店の丁稚が走ってきて、
「史進九紋龍百枚願います」
と言った。主人はにこりと笑い言った。
「一日中、史進の注文がうるさいくらいで」